紙のフィルムに刻まれた日本のアニメーション作品が、再び注目を集めている。1930年代の限られた時期におもちゃとして流通した、日本アニメ草創期の貴重なカラー作品。収集家以外には忘れ去られた存在だったが、デジタル化によって、その価値が見直されている。
ガラガラガラ……。
手回しの映写機の音が響く部屋に設置したスクリーンに、薄明かりのように映像が浮かぶ。
上下に揺れる画面の中に、色のついたキャラクターが縦横に動き回っているのが分かる。
大阪府内にある、映像文化史家の松本夏樹さん(72)の自宅で、紙フィルムアニメ作品「凸坊の探険」を見せてもらった。骨董(こっとう)市などで収集した作品の一つで、数分の短編だ。
松本さんと共に研究する大阪大の福島可奈子助教(43)=メディア考古学=によると、収集された品々や新聞記事、雑誌広告などの研究から、紙フィルムはこのように生まれたことが分かっている。
紙フィルムと専用の映写機は1932年、グラビア印刷技師の辻本秀五郎氏が開発。家庭映写機株式会社が、子ども向け玩具「レフシー」として販売した。
辻本氏は、大阪朝日新聞の付録「朝日グラヒック」の創刊にも貢献した人物。松本さんは「印刷技術をアピールする狙いもあったのでは」とみる。
通常の映写機はフィルムに光を透過させる。しかし紙フィルムの場合は、フィルムに当てた光を反射させて、スクリーンに投影する。
そのぶん光量が減ってしまい、画面も上下に揺れて安定せず、今の感覚では極めて見づらい。
ただ当時の日本映画は、モノクロ上映の時代。紙フィルムのアニメ作品はフルカラーで作られており、当時としては画期的な映像体験を味わえる装置だった。専用の映写機は高価で、裕福な家庭の持ち物だったようだ。
レフシーの成功を受けてか、大阪では家庭トーキー製作所が対抗するように、蓄音機と一体の発声映写機「家庭トーキー」を開発。史料では他にもライバル企業の存在が確認されており、多数の作品が世に送り出された。
しかし、福島助教は、「紙フィルム作品の研究はこれまでほとんど進んでこなかった」と明かす。
戦時下の38年、金属製玩具の製造が禁止され、紙フィルム映写機も市場から姿を消すことになった。作品も散逸し、収集家など知る人ぞ知る存在となっていた。
転機は、米国のメディア考古学者、バックネル大のエリック=フェーデン教授が専用のスキャナーを開発したこと。ここ数年で、収集家のコレクションのデジタル化が急速に進んだのだ。
すると、画面の揺れなどがない形で作品を鑑賞することができるように。福島助教は、「当時のアニメーターたちが実現したかったことが分かってきた」と話す。
アニメ作品を映した紙フィルムの動画や、こっちのけんと「はいよろこんで」のMVを手がけた作家による新作の画像は記事末尾に
30年代というと、米ディズ…