社会学者・南川文里さん寄稿
アメリカ合衆国は、「移民の国(a nation of immigrants)」を自認してきた。かつてジョン・F・ケネディが「すべてのアメリカ人は移民かその子孫である」と語ったように、アメリカは、国外からやってくる移民を国の成り立ちの根幹に位置づけ、自国の経済成長や文化発展の源としてきた。「移民の国」とは、単に移民の数が多いというだけでなく、「アメリカ(人)とは何か」を特徴づけるナショナル・アイデンティティーの一部となっている。
2024年のアメリカ大統領選挙で「移民問題」は、「経済」「民主主義」「人工妊娠中絶」と並ぶ重要争点の一つに挙げられた。とくに、正規の資格を持たないままアメリカに滞在する非正規移民(*)をめぐる問題をどう解決するのか。共和党ドナルド・トランプと民主党カマラ・ハリスの両候補に問いかけられたのは、選挙における政策論争だけでなく、今後もアメリカは「移民の国」であり続けるのかという、より根源的な問題であった。
*非正規移民
日本のメディアでは「不法移民」という語が使用されることが多いが、アメリカの主要メディアや移民研究では、「不法(illegal)」は行為を指す語であり、正規資格を持たずに滞在する人を指す場合には「非正規(unauthorized)」や「査証なし(undocumented)」などの語が用いられている。本稿では、日本語での移民研究の用法にならって「非正規移民」を使用する(筆者注)。
アメリカでは、2022年の推計で1100万人の非正規移民が生活し、総人口の約3.3%、労働者の約4.8%を占めている。農業、食品産業、都市部のサービス業(レストラン、清掃、家事労働など)をはじめ、非正規移民の労働力が不可欠な産業は少なくない。非正規移民の多くは、すでに10年以上アメリカで暮らし、アメリカ市民や正規移民と同様に、仕事を持ち、家族で暮らし、子どもは学校に通い、消費者・納税者として地域を支えている。一方で、多くの人びとが、不安定な法的地位ゆえに劣悪な労働条件にとどまり、健康保険に加入できず、日常的に差別を経験している。
また、2010年代以降は、国境を接するメキシコだけでなく、深刻な政情不安や治安問題を抱えるグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドルの中央アメリカ三カ国、ハイチ、南米のベネズエラなどから、庇護(ひご)を求めて米墨(アメリカ=メキシコ)国境に到来する人びとが増えた。そのため、今日の国境地域における移民問題は、人道的な保護や人権保障をめぐる「難民問題」の様相を帯びている。このような状況で、移民法制の枠組みを超えて入国・滞在する人びとの存在をどう考えるべきなのだろうか。
移民政策の「三原則」
アメリカを含む自由民主主義国家では、移民政策を規定する三つの原則がある。①市場原理にもとづく労働力の移動、②普遍的な人権の擁護、③国境と移動の管理、である。この三つの原則はつねに緊張関係にあり、移民政策研究ではこれを「リベラルなパラドックス」と呼んでいる。この緊張関係を調整するのが移民政策の基本課題であり、日本で語られがちな「国境開放(開国)」と「国境閉鎖(鎖国)」のような極端な政策選択は現実的ではない。この緊張関係はしばしば深刻な矛盾に陥る。たとえば、2010年代後半、シリアやアフリカからの大量難民に対峙(たいじ)したヨーロッパ諸国は、人道上の権利擁護と国境管理が両立困難な「難民危機」に直面した。
この三原則のもと、アメリカの移民問題は、すでに労働力としてアメリカ経済に組み込まれている非正規移民の基本的な人権を尊重するのか、それとも強制送還や国境管理を優先するのかに直面してきた。1990年代以降、この難問への有効な回答が見いだせないまま、人びとのあいだに、移民政策が「機能不全」に陥って、非正規移民のコントロールが困難になっているのではないかという不安が広がった。この不安を背景にして、2016年の大統領選では、国境に「壁」を建設し、「不法移民を一掃する」と主張したトランプが勝利した。移民問題は、コロナ対策による入国規制が続いた20年の選挙では優先順位が低かったが、24年には再び、重要争点となった。
しかし、今回の大統領選における移民政策論争は、全くかみ合わなかった。
ハリスの提案は、「労働者」「住民」として地域社会に定着する非正規移民の資格を正規化する制度を準備すること、難民性の高い庇護申請者に人道的な保護を与えること、そして、人身売買や麻薬密輸などの越境犯罪には厳格に対処して国境を守ること。この提案は、労働市場・人権・国境管理という移民政策の三原則をふまえたものである。問題解決への即効性や新規性には欠けるが、移民問題の現実をふまえたプラグマティックな政策であった。そして、非正規移民の物語を、アメリカという国を形づくってきた移民の歴史に重ね、有権者に「移民の国」の理想を体現しようと訴えた。
一方で、トランプは、非正規移民を「犯罪人」「レイプ犯」「麻薬犯罪者」「侵略者」と呼び続けてきた。24年9月の大統領候補討論会でも、具体的な政策よりも、「ハイチ出身の不法移民が住民のペットを捕まえて食べている」という誤情報にもとづく差別的な主張を繰り返し、移民の「侵略」に対する人びとの不安や恐怖をあおることに注力した。
トランプの「アメリカ第一主義」は、労働力としての必要性も、移民・難民に対する人権規範も無視して、国境管理強化と国内からの「侵略者」の排除を最優先とした。選挙キャンペーンを通して移民の脅威をあおり、国境とアメリカの「守護者」というイメージを植え付けようとしてきた。その姿勢は、移民政策の三原則を無視したものであった。
この大統領選は、トランプの勝利に終わった。「ワシントン・ポスト」の出口調査によれば、投票の際に「移民」を「最も重要なイシュー」とした有権者(全体の11%)の90%がトランプを支持した。ハリス支持者が移民問題を重視しなかったのに対し、トランプ支持者は、経済に次ぐ重要課題に挙げた。脅威をあおるトランプの戦略は、一定の効果をもたらした。
第2期トランプ政権が揺るがす、移民保護の市民社会
ただし、大統領選での勝利を…