今年12月にノーベル平和賞を授けられる日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)への期待が高まっている。ロシアのウクライナ侵略など「核使用の脅し」が公然化する世界で、被爆の実相を証言し、原爆を使わせない「核のタブー」をさらに強める必要があるためだ。日本被団協と連携して核兵器禁止条約の制定を主導し、2017年に平和賞を受けた国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)副事務局長のダニエル・ホグスタさん(37)に聞いた。
最初に出会った被爆者
大学で政治学と法律を学んだホグスタさんがICANで活動を始めたのは2012年。ICANが日本被団協と本格的に連携を始めたのもこの年だった。
「私が最初に出会った被爆者は、日本被団協代表委員の田中熙巳さんでした」。14年、メキシコのナヤリットで開かれた「第2回核兵器の人道的影響に関する会議」に、外交官らに交じって、被団協事務局長だった田中さんら被爆者も出席した。
「田中さんはとても力強い被爆証言をしました。この時だったかは覚えていませんが、昼食会のテーブルで私は彼の隣に座り、初めて会いました。そして、1945年に長崎で彼が体験したおぞましい出来事の詳細を知りました」
東西冷戦ただ中の84年、日本被団協がノーベル平和賞に推薦されたことが、朝日新聞上で報じられた。それから40年をへて、今回の授賞が決まった。その間、冷戦終結(89年)やソ連崩壊(91年)、ウクライナとカザフスタン、ベラルーシの核放棄(~94年)などがあり、2009年にはオバマ元米大統領がプラハで「核なき世界」の演説を行って同年のノーベル平和賞を受賞した。
しかしその頃までに、ソ連崩壊に伴う核軍縮のユーフォリア(陶酔状態)は終わり、米国やロシア、中国を中心とした国々は核兵器の更新を始め出した。
核不拡散条約(NPT)の体制下での核軍縮の停滞に不満が高まり、欧米の若い活動家中心のICANが核兵器が使われた場合の人道的な悪影響を食い止めようと核禁条約の制定に向けて動き出した。
下支えしたのは、被爆者でつくる日本被団協だった。
田中さんは、長崎に原爆投下された3日後、爆心地から500メートル離れた場所に入り、おばやいとこが焼け死んでいるのを見つけたほか、爆心地から700メートル離れた場所で死の淵にあった祖父が骨にまで達するやけどを負っていたのを見た。
「核に汚名を着せる」証言の力
ICANは、田中さんら被爆者の証言を元に核使用の恐ろしさを訴え、世界各国の反核団体や、オーストリアやメキシコなど「人道イニシアチブ」に賛同する国々の政府と連携して、国連の場で核禁条約制定を推進した。
ホグスタさんはこう振り返る。
「私自身、高校生の時に、広…