1930年に日本初の国立ハンセン病療養所として誕生した岡山県瀬戸内市の「長島愛生園」。ハンセン病が薬で完治するようになっても強制隔離政策は96年まで続いた。激しい差別や偏見にさらされ、人権を抑圧されたハンセン病患者たち。苦難の歴史を再び繰り返したくないと、自身の人生を語り、伝え続ける入所者がいる。
元患者で愛生園の入所者自治会長を務める中尾伸治さん(90)。戦後の療養所を知る1人として、語り部の活動を続けている。
国は31年に癩(らい)予防法(旧法)を制定し、在宅の患者も強制的に療養所に隔離されるようになった。このころ官民一体で患者を探して療養所に送り込む「無癩県運動」が始まり、自殺や一家離散など数々の悲劇を生んだ。
中尾さんが愛生園にやってきたのは戦後の48年6月のことだ。14歳になる直前だった。幼い時に父は他界し、母と4歳上の兄と3人で奈良市で暮らしていた。
小さな桟橋 自分だけが降ろされた
忘れられないのは、入所が決まった日だ。
中学校の校長室で友人と掃除をしていたところ、校内放送が流れた。「中尾伸治さん、すぐ家に帰りなさい」。帰宅すると、家族から愛生園行きを知らされた。
1週間後、医師らと船に乗り…