ハンセン病患者を治療し、隔離政策に反対した医師小笠原登さん(1888~1970)が生家の愛知県あま市の圓周寺で亡くなって、12日で54年となる。近年その足跡が評価され、映画が作られたり、寺に資料室ができたりと顕彰活動が相次ぐ。
今月8日、真宗大谷派の圓周寺にゆかりの人ら約80人が集まり、法要が営まれた。
「若い人に小笠原医師のことを伝えていきたい」。法要の実行委員長で大阪府大東市の坊守・小松裕子さんは語った。
小笠原医師は国の隔離政策に反して、ハンセン病の患者と向き合い続けた。圓周寺資料室によると、1915年に京都帝国大医科大(現・京都大)卒業後、同大病院でハンセン病治療に取り組んだ。戦後も同県豊橋市の国立病院などに勤めながら、ひそかに官舎の自室や同寺で治療した。
当時は国による隔離政策が続き、患者に「断種」まで迫った。有効な治療薬が普及するのは40年代以降だが、小笠原医師は新薬を研究したり、体質改善で悪化を防ごうとしたりした。「強烈な伝染病であるといふ迷信」などと論文に書いて、当時の政策や学界を公然と批判。異端視され、様々な圧力がかかったという。それでもカルテの病名欄を「進行性皮膚炎」と書くなどハンセン病を隠し治療を続けた。
闘い続けた医師、評価変えたのは?
70年に没した後、評価は変…