社会交流会館の資料の前に立つ池永禎子さん=2024年5月22日午前10時53分、高松市庵治町の大島、内海日和撮影
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 瀬戸内海に浮かぶ離島のハンセン病療養所・大島青松園(高松市)。園内にある社会交流会館の展示室には300あまりの資料、図書室には1万冊の蔵書がある。池永禎子さん(49)は、5年前の開館当初から同館でただ一人の学芸員を務めている。多いときには700人以上いた入所者も、現在は29人にまで減り、平均年齢は86・6歳(1日現在)。療養所としての役割を終えようとしている今、資料を守る学芸員として、池永さんは何を思うのか。

 ――学芸員を目指したのはなぜですか

 小さいころから親に博物館や美術館に連れて行ってもらって、その空間がすごく好きでした。大人になるにつれて、そんな空間をつくっているのはどんな人なんだろうと考えるようになって、学芸員という仕事に興味を持ち始めました。

 大学時代の先生から「欧米では民間企業で経験を積んだ人が、学芸員になって活躍している」という話を聞いて、当時は就職氷河期だったこともあり、内定をもらった民間企業に就職しました。就職して3年目のときに、会社をやめて学芸員を目指すことに専念するようになりました。

 ――社会交流会館で働くきっかけは

 2001年に「らい予防法」が憲法に違反するとして国を訴えた裁判で、原告勝訴の判決が出たというニュースを見るまで、深く勉強してきませんでした。

 以前、シベリア抑留や満州引き揚げなどを扱う平和祈念展示資料館(東京都)で学芸員をしていたことがあります。その際、教科書でもあまり大きく扱われない歴史の一面を伝えるというのはすごくつらいけれど、やりがいのある仕事だと思いました。大学院で研究テーマとして何度か扱ったこともあり、よりハンセン病に関心を持つようになりました。

 ここに着任する前は、東洋英和女学院大学(横浜市)の教員でした。学芸員人生の集大成として、ハンセン病問題にがっつり取り組みたいと思い、ハンセン病療養所の学芸員の求人が出るのを待っていました。2017年に求人が出て、迷わず挑戦を決めました。

 大島青松園は現在では全国で唯一、離島にある療養所で、全国ハンセン病療養所入所者協議会などのリーダーを務める方を輩出しています。そんな療養所には、特別な歴史があるんじゃないかと思い、縁もゆかりもない香川県の大島を勤務地に希望しました。

 社会交流会館のオープン当初から、たった1人の学芸員を務める池永さん。後半では、歴史を後世に伝えるための工夫や社会交流会館が目指す姿について語っています。

 ――開館までの苦労はありましたか

 展示は本当に一からだったの…

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