1981年、ルクセンブルク生まれのピアニスト、フランチェスコ・トリスターノの新譜を聴く。クラシックとテクノを等しく表現の礎とする、まさしく時代の寵児。曲はバッハのトッカータ。
ルネサンスからバロック期によく書かれた鍵盤作品のジャンルのひとつだが、バッハのトッカータはとりわけ、瞬発的な即興演奏をそのまま楽譜にしたかのようにみずみずしい。弾いて良し、聴いて良し。問答無用に気持ちいい。
弾力に満ちた舞曲のリズムの上で、技巧的なパッセージが形式の軛(くびき)を逃れ、小節の結界を軽々と超え、やがて奔流に。古楽もジャズもインスパイアの源とするトリスターノは、バッハの時代と現代のグルーブを鮮やかに絡ませる。
無尽蔵にあふれ出す創意に身を任せる青春時代のバッハの心をのぞきこむようでもあり、胸がいっぱいになる。指先から世界へ、そして宇宙へ。無限に他者と連なってゆく身体的な感覚を、鍵盤の名人であったバッハもまた、陶酔とともに味わっていたのだろう。
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現代の私たちは、誰の身体にも出会わずして、音楽に触れることのできる環境を生きている。野菜や果物のように、世界中の演奏家やオーケストラの響きが入れ代わり立ち代わり「入荷」される。
CDからサブスクへと移ろい、その速度は増すばかり。どの音源もミスを修正され、商品として精製済み。美を追究するほどに、排除や管理への意識もまた研ぎ澄まされがちになるということを、私たちはつい忘れがちになる。
近代以降のクラシックの歴史は、身体性がどんどん音楽から切り離されてゆく歴史でもある。米国の作曲家ジョン・ケージは52年、「4分33秒」という曲で沈黙に聴衆を向き合わせた。管理されない音を「雑音」ととらえる己の感覚の不自然さを、まず疑え。いま思うとそのメッセージがいかに予言的なものであったことか。
東京を拠点とする私自身も…