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川石酒造之助さんの長男・則一さん(一番奥)の柔道クラブで稽古をする子どもたち

 パリ五輪が開かれるフランスでは日本発祥の柔道が盛んだ。登録人口は日本の4倍以上の53万人。五輪種目では国内4番目、12歳以下では2番目の多さだ。五輪チケットはすでに完売し、会場は超満員が予想される。なぜこれほどまでの柔道大国になったのか。そこには、一人の日本人の存在があった。

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 1月14日、パリ郊外の墓地には人だかりができていた。集まった数十人の柔道関係者を前に、フランス柔道連盟(FFJDA)のモハメド・ゾアール副会長はこう語りかけた。

 「マスター・カワイシのフランス訪問は柔道の発展に決定的な転換点をもたらした。彼は欧州と世界で最も偉大な柔道大使だ」

 墓に眠るのは川石酒造之助(みきのすけ)。墓標には「フランス柔道の創始者」とフランス語で刻まれていた。

 現地の柔道関係者の間では、こうも呼ばれている。

 「フランス柔道の父」

 川石は1899年、兵庫県姫路市の造り酒屋に生まれ、幼いころから柔道に打ち込んだ。早大卒業後、政治を学ぶために米国へ留学したものの、現地で柔道教室を開いたことをきっかけに柔道指導者の道を歩み始めた。

 南米や英国でも柔道の手ほどきを行い、フランスへ渡ったのは1935年10月。パリで柔道クラブの技術顧問や経営に乗り出した。柔道は護身術などとして、科学者や医師ら当時の上流階級を中心に人気を集めた。川石が関係するクラブの会員にはノーベル化学賞を受賞したジョリオ・キュリー夫妻も名を連ねた。

写真・図版
1942年、弟子と一緒に写真に写る川石酒造之助さん(中央)=吉田郁子さん提供

 川石には信念があった。

 「柔道は麦や米のようなもの。その土地に合わせないといけない」

 礼儀正しさ、謙虚さといった柔道本来の教育的価値を中心にすえつつも、日本流を押しつけるのではなく、フランスに合わせた指導法を確立していった。

 「大外刈り」や「一本背負い」など、外国人が日本語で技の名前を覚えるのは簡単ではない。そこで「足技1号」「腰技1号」など番号に置き換えて教えた。

 帯にも工夫をした。日本では当時、ほぼ白と黒の2色しか使われていなかったが、フランスでは技量別に黄色や緑などを加えた7色を用意した。川石の長男で柔道教師の則一は「強い色の帯を締めたい、というモチベーションをかき立てるためだった」と話す。

 世界の柔道史を研究するボルドー大学元教授のミシェル・ブルースは、川石について指導法もさることながら「『柔道教師』という新しい職業を生み出した功績が大きい」と話す。

 川石の柔道クラブは比較的高額な月謝を設定するなどし、安定した経営を行うことに成功した。

 黒帯を取った弟子にも柔道クラブの開設を推奨。黒帯を巻ければ柔道教師になれると、さらに柔道に励む人が増えた。戦後、川石の弟子の働きかけで、柔道教師は国家資格になり、安定した職業となった。49年にはフランス全土に約180、今は約5200のクラブがある。

 「川石式」の指導教本は英語やスペイン語などにも翻訳され、アフリカやアジアなど世界30カ国以上で実践された。60年代にラオスで柔道指導を行った真柄浩は、道場に見覚えのない日本人の写真が飾られているのに気付いた。現地の関係者から「日本人なのにカワイシを知らないのか」と驚かれたという。

 国際柔道連盟のブラッド事務総長は「彼の功績は言葉で言い表せない。とんでもないものだ」と話す。だが、2004年に川石の伝記を出版した吉田郁子は「日本に資料がなくて苦労した」と振り返る。川石の功績は、これまで日本柔道界で紹介されることがほとんどなかった。

 理由の一つが、柔道の総本山・講道館との摩擦だ。

 講道館は1951年、フラン…

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