広島で被爆し、ブラジルに移住して在外被爆者援護の実現に尽力した森田隆さんが12日、サンパウロの病院で死去した。100歳だった。13日に葬儀が営まれた。

 森田さんは1924年、広島県砂谷(さごたに)村(現・広島市佐伯区)で生まれた。20歳のとき、静岡県浜松市の航空隊に入隊。志願して憲兵となり、中国憲兵隊司令部に憲兵兵長として配属されて爆心地から1・3キロで被爆し、首などに大やけどを負った。

 戦後、ブラジルからの帰国者に移民を勧められ、56年にブラジルに渡った。当初は、差別や偏見を恐れて被爆者であることを明かさずに暮らした。84年に日本の被爆者に健康管理手帳が交付されていたことを知り、同年7月に在ブラジル原爆被爆者協会を設立した。

「被爆者は、どこにいても被爆者」訴え、国相手に裁判

 移住後に初めて帰国して被爆者健康手帳を取得したが、出国を理由に失効した。再び帰国した96年、改めて手帳を得て健康管理手当も受け取った。だが、「被爆者の権利は国外に出れば失われる」とした国の通達により、ブラジルに戻るとまもなく、手当は打ち切られた。

 日本の弁護士から裁判を勧められた。「被爆者は、どこにいても被爆者。在外被爆者の長い『戦後』に終止符を打ちたい」として、2002年に健康管理手当の支給を求めて提訴に踏み切った。

 在韓被爆者が訴えた同様の訴訟の証言台にも立ち、「格差」是正を訴えた。国は敗訴し、03年に通達を廃止。08年には広島地裁で、海外からの手帳申請を求めたブラジルに住む被爆者と遺族が、例外なく来日を手帳交付の要件とした国の運用を「裁量権の乱用で違法」とする判決を勝ち取った。

 08年に在ブラジル原爆被爆者協会の名称を、ブラジル被爆者平和協会に変えて、ブラジルの中高生らに被爆体験を語る活動を続けた。同協会は20年末、被爆者の高齢化で組織の維持が難しくなったことなどを理由に解散した。後継の団体が被爆証言活動を続けている。

 森田さんは17年、これまでの歩みを記した自伝「広島からの最後のメッセージ」をポルトガル語で出版。5月には広島選出の岸田文雄首相がサンパウロを訪れた際に面会し、岸田氏に手渡して核廃絶への思いを伝えた。

死去前日に面会した渡辺淳子さん「信念揺るがない方だった」

 森田さんと共に長年にわたりブラジルで活動を続けてきた渡辺淳子さん(81)によると、森田さんは請われればブラジル中のどこにでも被爆証言のために出かけたという。「飛行機やバスで何時間かかってでも、『核兵器は二度と使ってはいけない』『平和が最も大切』という思いを伝える信念は揺るがない方だった」と話す。

 渡辺さんは森田さんが死去する前日、森田さんが療養する施設で面会。元気そうな様子を見せていただけに、突然の死去に驚いたという。「日本と在外の被爆者に分け隔てなく援助してほしいという森田さんの思いが実現する道のりは、並大抵でなかった。バトンタッチして、森田さんの遺志を引き継ぎたい」(翁長忠雄、サンパウロ=軽部理人)

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