80年前の1944年11月27日、米軍は西太平洋のパラオ・ペリリュー島での作戦終了を宣言しました。日本軍の粘り強い持久戦のため、米軍が数日間と見込んだ戦闘は9月15日から2カ月余も続き、日米両軍の戦死者は1万1千人を超えました。防衛研究所戦史研究センターの松原治吉郎主任研究官は「米軍は予想外に大きい損害を出し、凄惨(せいさん)な戦いとしても記憶されている」と語ります。
- 原爆発進基地から対中拠点に 80年の時が変えた太平洋の島テニアン
――米軍はなぜ、ペリリューの戦いを楽観していたのでしょうか。
日本軍の守備隊約1万人に対し、米軍地上部隊は約5万人でした。上陸前には入念な艦砲射撃と爆撃を加えました。ところが、日本軍は4カ月にわたってサンゴ礁でできた島の地形を利用して陣地を造り、島内各所に武器・弾薬や食料を分散して隠しておきました。米軍の艦砲射撃を指揮した司令官は後に、日本軍陣地から攻撃を受けた際の「私の驚きと残念な気持ちがどうであったかは想像できると思う」と回想しています。
また、米軍は同年6~7月に実施したサイパン攻略戦の時と同じように、日本軍が「バンザイ突撃」を仕掛けてくると予想していました。ところが、日本軍はサイパン戦で採用した海岸線に戦力を集中する水際防御戦術について、米軍の上陸を遅らせるために限定的に用いただけで、総数500カ所といわれる洞穴陣地にこもり、持久戦を挑みました。
その結果、戦闘に70日近くを要し、米軍は最初に上陸した第1海兵師団の死傷率が約5割に達して第81歩兵師団と交代する事態に至りました。
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――日本軍はなぜ戦術を変え…