神里達博さん

神里達博の「月刊安心新聞+」

 参議院選挙の結果を見て、ついに日本も本格的なポピュリズムの時代に入ったのかと、驚いた方も少なくないだろう。

 世界中で広がりつつあるこの潮流は、しばしば排外主義や差別的な主張を伴い、法の支配や人権など、民主主義を支える基盤を攻撃することも多い。当然、これらは断固、糾弾されなければならない。

 だが、単にポピュリズムを全否定すれば済む話でもない。なぜなら、民主主義のある種の側面と、それは深く結びついているからだ。

 ポピュリズム研究は現在も続いており、専門家の間でも意見が分かれる部分がある。とはいえ、多くの識者の間で見解が一致しているのは、「社会が『汚れなき民衆』と『悪(あ)しきエリート』に分かれており、民衆の意思を完全に政治に反映させることこそが正義である」という世界観を、ポピュリズムが共有している、という点であろう。

 確かに私たちは昔から、そういう「物語」を消費してきた。たとえば「ロビン・フッド」や「鼠(ねずみ)小僧」は、重税を課す権力者や金持ちから金品を奪い、貧しい民衆に分け与え、拍手喝采を浴びる話である。また近年の文学や映像作品などにもそんな勧善懲悪の物語は多々ある。

 これらは、おそらく人類に普遍的な型、つまり一種の「神話」なのだろう。だが現実の政治には当然、物語とは決定的に異なる部分がある。

 まず、ある人物を「悪しきエリート」と認定する権利は誰にあるのか、という問題である。そしてもう一つは、「民衆」の利害が一枚岩ではなく、必ず細かな「利害対立」を抱えるという点である。つまり本当の政治問題は、「悪しきエリート」を排除した後にやってくるのだ。

 当然ながら近代的な国家は…

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