【動画】Re:Ron 哲学者永井玲衣さん×映画監督空音央さん対談=川村直子撮影

 世界各地で政治の混迷が続き、災害に振り回され、戦禍が絶えないなか、不確かさを越えて、2025年、そして未来を生き抜いていくために――。学校や企業、路上など様々な場で対話を試みる哲学者の永井玲衣さん、排除や監視が強まる近未来の日本社会を描いた青春映画「HAPPYEND」が注目された映画監督の空音央さんが、「対話と恐怖」「政治的であること」「共同体の必要性」「身体になる準備運動」「応答と責任」をキーワードに語り合った。

先の見通せない不確かさに覆われた時代をどう生きていくのか、社会と向き合う人たちに語ってもらった。

空音央さん(右)と永井玲衣さん=東京都中央区、川村直子撮影

 【永井】 全国色んな場所で人々ときき合い考え合う場を作り、そこで聞いたり考えたりしたことを書く、ということをしています。ここ数年は戦争について考える場を作ることもしています。

 対話の場を作ることは、他者とつながり直そうとすること。

 対話って、議論や討論と「他者観」が根本的に違う。対話的な議論もあるとは思うけど、論破や分断に表されるような人々の集いは、他者を競争相手とするようなあり方。でも対話的な場というのは、他者と共同的な関係を作ろうとすることだと思うんです。

 なぜそんなことをしなきゃいけない、と痛烈に思うのか。

 コロナ禍が非常に特徴的だったけど、他者が競争相手だけでなく「脅威」になってしまった。そうなると他者を拒絶していく。不確かさと恐怖が積み重なり、どんどんバラバラになっている状況に危機感を覚えています。

 【空】 教師をしている友達と話していて、中高生の頃にコロナ禍を経験した子どもたちが、人と話さなくなった、自分の意見を言わなくなった、と聞きます。オンライン授業でもカメラをオフにして、クラスルームに出た時にもどう人と接していいか分からなくなっている、と。どう打破していくのか、先生たちも思い悩んでいるようです。

 【永井】 みんな優しいんです。他者に傷つけられることも怖いし、他者を傷付けてしまうこともものすごく怖い。そうすると、人と関わること自体が怖くなる。でもその先に待っているのは、不安でいっぱいの「優しくない」社会です。

空音央さん(手前)と対談する永井玲衣さん=東京都中央区、川村直子撮影

 【空】 「聞いてみないと分からない」からスタートせず、「同一性」みたいなものを期待できるような人としか話したくない、という状況になっている。相手の属性や考えていることを一方的に自分の中で膨らませて、それで仮想相手に恐怖を持ってしまっている。そんな状況が日本では特にあるような感じがしています。

 僕はアメリカのニューヨークで生まれ育ったのですが、皆の文化が違いすぎて、最初から「お前が誰かは分からない」という状態なんです。属性だけでは絶対に分かりえないだろうという人が多くて。たとえばですけど、キューバから亡命してきた超トランプ主義者にサウナで話しかけられたり、「Make America Great Again」のキャップをかぶっているアジア人もいる。あのキャップには警戒心は覚えるけれど、話してみると意外と分かりあえることもあった、ということも。とにかく聞いてみるしかない、という状況なんです。

 【永井】 私たちは考えがバラバラなんだということと、個人がバラバラで集えない、ということって全然別で、私たちは違いがあるからこそ一緒に考えないといけない。常にすでに共に生きている異なる他者と、どうやって調整しながら共に生き直していくか、を。

 【空】 映画監督の仕事をしていて、物語を作る時によく言われるのは、大きく分けて、「ガーデナー=庭師」的に脚本を書いていく人と、「アーキテクト=建築家」的に脚本を書いていく人がいる、と。僕は建築家タイプで、先に構造を作って物語を描いていく。その危険性は、どうしてもキャラクターや物語の進み方が機能的になってしまうことなんです。

 ドラマを展開させていくためのキャラクターになってしまうという危険性があって、そうすると映画が面白くなくなる、と僕は思う。機能だけに人物が回収されてしまうから。ではどういう風にそれを奪還していくかというと、その人物たちを一人の人間として立たせていくんです。架空のキャラクターたちを人間にするには、一人一人特有の考えや人間性みたいなものを肉付けしていかないといけない。

 そんな時、自分の中だけを探っていくのには限界があるので、知らない人ととにかく話してみることが糧になる。どうせこの人は……と思った人が全然違ったり、違うと思ったポイントが面白かったりする。そういうのを見つけるとすごくワクワクする。どんどん属性が裏切られてほしいし、裏切ってほしい。というか、自分が想像できる人の属性を軽々しく裏切ってくる人がほとんどなんじゃないでしょうか。

分からないけど分かる 違うけど重なる

 【永井】 「考えが違う人とどうやって話せばいいですか」「意見が違う人とも対話しなきゃだめですか」とよく質問されます。気持ちは分かりつつも「考えが同じ」ということはそもそもあり得ない。同時に「まったく重なり合わない」ということもあり得ない。

 対話では、輪になってゆっくり一緒にきき合うわけですけど、ああそうか、この人にも取り換えのきかない生があるんだ、いま目の前で生きているんだ、と肌で感じておののきます。分からないけど分かる。違うけど重なる。シンプルではない世界に入っていきます。

 そう言うと、「何も決められなくならないですか」「おかしいことにおかしいって言えなくなっちゃうんじゃないですか」という反応もあって。そういうことではないんだけれど、どう伝えていったらいいのか、というのはよく悩むんです。

 【空】 対話ってエネルギーが必要ですよね。

 僕は結構シャイで、「ソーシャルバッテリー=社交するための充電」が必要になるんです。最近はずっと海外の映画祭を回って色んな人と話して結構疲れてきていて、充電が必要だと感じています。

 特に自分と意見が全く違う人と半分けんかとか議論みたいになったりすると、どっと疲れるわけです。疲れたくないからもう議論もしない、っていうほうが簡単なんですけど、でも本当にその人のことを大事に思っていたら、頑張って対話しようとするんじゃないかな。相手のことが好きであればあるほど、ちゃんとけんかをしたほうが、お互いのためにためにもなる。

永井玲衣さん(手前)と対談する空音央さん=東京都中央区、川村直子撮影

 【永井】 確かに。でも好きだから話せない、と思ってしまうこともあると思う。対話って、実は近い関係の人とのほうが難しかったりするんですよね。「HAPPYEND」も、友達同士で話したいけどうまく話せない、ということを描いていた。諦めたくないんだけど、もういいよとも言いたくなって、そこにさいなまれます。

 【空】 「HAPPYEND」は架空の近未来の日本の高校生たちの話で、コウというキャラクターの政治性が開花して、もう片方のユウタはいつも通りでいたい、そこで起こる友情の亀裂の物語。

 僕が高校生の時は、漠然と感じていた危機感や心配ごと、社会の不条理を分析する能力もないので、言語で説明できていなかった。感じてはいたけれど友達に話せない、そのもどかしさがあった。映画の中のコウは、別の友達を通して言葉を持ち始める。その瞬間、自分が感じていたことが輪郭を得る。そういう時期が自分にもあって、大事だったんです。

「政治的」ってどういうこと? 

 【永井】 映画を見て、コウはユウタと別に「政治の話」をしたいんじゃない、コウはユウタに自分や色んな人々がここに生きていることを分かってもらいたいだけなんだ、ということを思いました。

 「政治の話をしよう」みたいな取り組みは私もするんですけど、カギ括弧つきの「政治の話」をわざわざしたいんじゃなくて、「ここに苦しんでいるんだよね」とか「ここはおかしいよね」とか、もっと聞いてほしい、あなたの話も教えてほしい、一緒に考えたい。

 それは2人でも3人でも話し…

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