連載:済州に捧げる歌 加藤登紀子さん 戦後80年の旅【2】
韓国の済州島(チェジュド)を初めて訪れた加藤登紀子さん。4月1日、「済州4・3平和公園」で手を合わせると、マイクロバスで山を下り、海沿いの集落へと向かった。
島の北部にある北村里(プッチョンニ)。「4・3」の渦中、老若男女を問わず住民が集められ、数百人がいっぺんに集団虐殺された地だ。
桜花が香り、青い海を見渡す慰霊公園には済州島の守り神の石像「トルハルバン」が両わきに立つ慰霊碑がある。登紀子さんは手をあわせると、塔の背後に立つ犠牲者の名を刻んだ「刻銘碑」に目を移した。生まれたばかりで名前もつけられておらず、「某の子」とだけ記されたものもある。
「乳飲み子が虐殺される理由なんてないはずなのに」
犠牲者の子どもを埋葬したという石積みの墓を押し黙ったまま巡り、静かに手をあわせた。集落の悲劇を伝える資料館に入ると、出迎えたスタッフが説明した。
「済州4・3は済州島だけで起きたことだと考えると決して理解はできません。日帝強占期(日本の植民地支配期)、米国、ソ連、北韓(北朝鮮)。すべて関係しているのが済州4・3です」
登紀子さんは済州島訪問を前に4・3をもっと理解したいと、2024年のノーベル文学賞作家のハン・ガン氏が4・3を題材に書いた小説「別れを告げない」を読み、関連本にも多数目を通した。
連合国が無条件降伏を求めたポツダム宣言を日本が拒んでいる間に広島、長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦した。日本の敗戦後、解放を迎えたはずの朝鮮は米ソが北緯38度線を境に南北分割占領した。両大国を後ろ盾にした韓国、北朝鮮という二つの政府の樹立と朝鮮戦争。祖国が分断されていく渦の中で、「分断されたくない」と民衆が立ち上がったのが4・3であり、そもそも分断のきっかけをつくったのは日本の植民地支配と長引いた戦争ではないのか。
そう考えていた登紀子さんは、スタッフの説明に通底するものを感じた。
マイクロバスは島の周回道路を走り、ユネスコの世界自然遺産に登録されている島東部の「城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)」へと向かった。観光客でにぎわう海に突き出た山。そのふもとの切り立った岩肌の一角にぽっかりと開いたいくつもの洞穴がある。旧日本軍が戦争中に築いた軍事施設の跡だ。
日中戦争が始まると、日本軍は済州島に飛行場を造り、中国の都市への爆撃拠点とした。太平洋戦争末期は、大陸や朝鮮半島から本土への物資輸送を遮断するために米軍が済州島に上陸するのではと想定した。
島の住民や朝鮮半島から労働…