被爆体験を語る橋本赳夫さん=2025年4月12日午後4時41分、広島市東区戸坂山根3丁目、柳川迅撮影

聞きたかったこと 広島

 「座敷にパーッと光が来たんです。草色の光が部屋をずうっと漂うんですよ」

 1945年8月6日、広島県立広島第二中学校(現広島観音高校)の2年生だった橋本赳夫さん(93)=広島市東区=は疎開先の落合村(現・安佐北区)の農家にいた。体調を崩して学校をしばらく休んでおり、その朝も登校するか迷いつつ、表座敷で新聞を広げていた。

 そのとき突然、緑色の光が走った。3秒ほどかけて部屋の隅々をなめるように照らし出した。続いてドーンという大きな音がとどろいた。

 庭に飛び出すと、広島方面に巨大な白煙が立ち上っており、やがて頭が傘状に広がった。爆心地からは約11キロ。隣のご隠居さんが「ありゃあ、海田あたりの軍の施設が新兵器でやられたんじゃろうて」と言った。

 やがて最寄り駅だった玖村駅に汽車が入ってきた。窓ガラスがすべて吹き飛んでいた。乗客には顔も服も真っ黒で、顔が判別できない人もいた。

 姉、弟と自分を1人で育てていた母は、駅で知り合いの女性とその義理の娘を見つけると、疎開先の農家へ連れ帰った。2人は段原で被災し、行くところがなかった。

 その義理の娘から自宅の防空壕(ごう)に残してきた日用品などを取りに行きたいと頼まれ、橋本さんは8日、一緒に広島市内に向かうことになった。

 広島駅の地下道では、顔や腕を包帯でまかれた人が大勢、担架に寝かされていた。多くは亡くなっているようだった。

後ろめたさ今も

 15日になり、学校の様子を…

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