2003年、野球のアテネ五輪予選を兼ねたアジア選手権で日本代表を指揮した長嶋茂雄さん(手前右)

 読売ジャイアンツ(巨人)・長嶋茂雄監督の最後のシーズンとなった2001年、球団担当記者の一人になった。幼少期に憧れた背番号「3」を間近で取材することができると大喜びしたが、現実はそう甘くなかった。

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 長嶋監督が一歩外に出れば、常に報道陣が二重三重の輪をつくった。ラグビーのモールのような密集状態での取材になった。担当1年目の記者がすぐ傍らに近づいたり、質問したりできる機会はなかなか訪れなかった。そんな状況を当の長嶋監督は嫌がることなく、ごく自然に受け入れていた。

 ある時、長嶋監督が質問に答えながら、視線を動かし、記者の顔ぶれを確認しているように感じた。顔見知りのベテラン記者やアナウンサーを見つければ、「やあ、どうも」とほほ笑みかける。先輩記者から「監督は記者をよく見ているから、いつもネクタイを締めていくように」と助言されたことを思い出した。

 1週間ほど続いた遠征の滞在…

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