「十二宮・闇の疑似餌(ぎじえ)」 挿絵・風間サチコ  現代社会をイメージした作品を毎月掲載します。

論壇時評 宇野重規・政治学者

 論壇時評を執筆するのも今月が最終回となる。身の回りから世界に至るまで、つねに何らかの変調を感じ続けた2年間であった。その感覚はいまや既存秩序の崩壊として現実化しつつある。わたしたちはこの崩壊感覚のうちに身を潜めるしかないのだろうか。

 文筆家の木澤佐登志は、トランプ米大統領とその周辺にいる人々の思想を「権威主義的リバタリアン」と呼ぶ《1》。彼らの多くはシリコンバレーの億万長者であり、既存の国家や政府を敵視し、それを支える官僚やジャーナリストの排除を訴える。多様性や社会正義を叫ぶ人々を一掃し、無力な民主主義を放棄して、米国のトップに専制君主となるCEOを設置することを夢見る。エリート意識と歪(ゆが)んだ被害者意識を持つ国家の破壊者たちが国家のトップに居座る矛盾は、世界の未来にどのような影を落とすのだろうか。

軍の威光を利用し、軍の乗っ取りを目指す米大統領

 トランプ政権は軍にもねらいを定める。政治学のロナルド・R・クレブスによれば、政権についたポピュリストは最初こそ軍の威光を利用するが、次第に軍のプロフェッショナリズムを敵視するようになる《2》。やがては軍の規律を重視する職業軍人を自分に忠実な人間と入れ替え、軍の乗っ取りを目指す。第2次トランプ政権が行っているのがまさにそれであるが、軍の政治化は市民の軍への信頼を傷つけ、国家安全保障に大きなダメージを与えると説く。

 トランプ政権は通商政策も「ディール(取引)」の材料にする。国際経済法の川瀬剛志は、トランプ大統領の周辺に見られるのは、製造業中心の地域社会へのノスタルジーであるとする《3》。米国の強みはつくり手としての国民であり、労働がもたらす自尊心を回復するために、輸入を遮断し、米国に生産を回復する。このような「物語」が好まれると同時に、極度に左右二極化した国内政治に起因するゼロサム的思考が、自由貿易の「放棄」をもたらす。しかしながら、トランプ氏との「取引」は何も保証しない以上、日本は、お目こぼしに甘い期待を抱かず、米国不在でもルールの支配に基づく自由貿易体制の維持・発展に努めるべきであろう。

 国際政治の遠藤誠治もまた、予測可能性を低下させることによって自国に有利な結果をもたらすことを意図するトランプ大統領に対抗する必要を説く《4》。いまやトランプ政権によって脅かされるのは自由主義的国際秩序、あるいはさらに「秩序」そのものである。第2次世界大戦後の世界は、制度化され組織化された国際的なルールの体系によって、相互の予測可能性を高め、相互利益を追求してきた。これに対し、現在の日本はトランプ氏の機嫌を損ねることを極力回避し、ダメージを軽減することに汲々(きゅうきゅう)とするばかりである。今こそ東アジアの安定や社会保障を考えるため、予測可能性とレジリエンスを高める国内社会の改革を相互に進める必要がある。

労働生産性が上がり、賃金が上がらなかった25年間

 日本国内でも新たなルール・メイキングが求められる分野は多いが、今月は労働をめぐって興味深い論考が目立った。

 エコノミストの河野龍太郎は、この25年間で日本の時間あたりの労働生産性が3割も上昇したにもかかわらず、時間あたり実質賃金がまったく上がっていないことを問題視する《5》。とくに長期雇用制度の枠外にいる非正規雇用の人々は定期昇給もなく、インフレで物価が上がることで、生活が成り立たなくなっている。実質賃金を上げずに生産性向上の恩恵を企業がため込む状態は、極めて収奪的である。このことが昨年10月の衆院選でのポピュリズム台頭の背景になったとする河野は、中間層へのセーフティーネットを拡充することがむしろ成長につながると提言する。

 教育社会学の内田良による「…

共有
Exit mobile version