人にはハマってしまうものがある。推し活もその一つだし、お酒のように度が過ぎると治療の対象になるものも。でも、ないと困るほど何かに入れ込み依存することは、いけないことなのだろうか。自らの体験や依存に苦しむ人との対話をもとに「安全に狂う方法」を著した作家の赤坂真理さんと考えた。
努力しても離れられない状態
――著書では依存症ではなく、英語の「アディクション」という言葉を使っています。なぜですか。
依存症という言葉には、薬やアルコールがやめられないなどの「症状」を伴う印象があります。でも、インターネット掲示板の書き込みやSNS上の言葉など、求めていなくても「向こうからやって来るもの」もあり、依存症という言葉だとこういうものが見えない。そこで、何かにとらわれ、努力しても離れられない状態のことを、アディクションと呼びました。
――自分で自分を止められないわけですね。
一番よくあるアディクションは思考です。「自分はダメだ」「死んだほうがいい」など、自分を責めるような考えにとらわれてしまう。アルコールや薬物への依存は、そういったつらさを和らげる「セルフ緩和ケア」という面もあります。
――アルコールや薬物への依存が「セルフ緩和ケア」とは刺激的な発想ですね。
原因となっている問題に直面するとつらいので、症状に逃げたり、頼ったりする面がある、という意味です。本人にとっては緩和ケアでも、その手段が問題になるのが、いわゆる依存症です。それがもたらす「幸せ」が欲しかった、と言う方が多いです。
一方、症状がないアディクションもあります。ただ、その方がいいかといえば、そうでもない。症状がない人は、アディクションの元を抱えたまま緩和する方法もなく、いきなり切迫することがあります。
元とは、大きく言うと生きづらさ。心の痛み、トラウマもそうですね。それらを長い間ためていると、抑圧しておけない瞬間が来るかもしれない。そのつらさを和らげる手段を持っていないと、他者や自分を害してしまうような極端な状態になってしまうことがある。
アディクション自体は悪くない
――自分ではアディクションに気づいていない人も多そうです。
本の読者から、そういう手紙をいっぱいいただきました。承認されたい欲求にはまって、自分を苦しめていたことがわかった、とか。承認は人間の根源的な欲求ですが、強くはまると自分を追い込んでしまう。私も自己評価が低かったので、承認されることに執着したことがあります。それはつらかった。
――アディクションは、いけないことでしょうか。
アディクションそのものが悪いわけではありません。思考であれば、自分にとって害のある考えが癖になるのがまずいのです。よい習慣でも、アディクションと呼ばれるくらいの反復がなければ身につかないこともある。つまり、付き合い方次第です。
記事の後半では、アディクションとの向き合い方について赤坂さんが語ります。
――では、どう向き合えばい…