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滋賀県東近江市の百済寺で約100年ぶりに見つかった織田信長の朱印状=2025年4月28日午前11時51分、滋賀県東近江市役所、辻岡大助撮影

 約100年にわたって所在がわからなくなっていた織田信長の朱印状が、滋賀県東近江市の百済寺(ひゃくさいじ)で見つかった。市が28日、発表した。信長が京都に入る直前に寺を祈願所とする内容で、信長の官位「弾正忠」や「天下布武」の朱印が確認された。

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百済寺で見つかった朱印状。織田信長の官位「弾正忠」が書かれ、「天下布武」の印が押されている=2025年4月28日午前11時53分、滋賀県東近江市役所、辻岡大助撮影

 市によると、朱印状は縦31センチ、横43・6センチで、紙質はこうぞ紙。寺の古文書約1千点の中から見つかった。紙に包まれた状態で木箱に収められていた。

 信長が足利義昭を奉じて京都に入る直前の1568(永禄11)年9月22日、百済寺の諸事や寺法の保障▽寺の財産の保障▽寺を信長の祈願所とする――の三つの条令で構成されている。その9日前、信長は六角氏の居城の観音寺城を手中にし、周辺の地域を平定する過程で朱印状を出したとみられる。

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滋賀県東近江市の百済寺で約100年ぶりに見つかった織田信長の朱印状(左)。包み紙(右)に収められていた=2025年4月28日午前11時50分、滋賀県東近江市役所、辻岡大助撮影

 百済寺は天台宗の古刹(こさつ)。戦国時代には僧兵ら約1千人を抱え、軍事的にも際立つ存在だったという。信長の祈願所になったあと、再び六角氏側に傾き、73(元亀4)年に信長によって全山を焼き打ちにされた。

 朱印状は滋賀県米原市出身の郷土史家が1929(昭和4)年刊行の史書「近江愛智(えち)郡志」に写真付きで紹介したが、その後、原本は行方不明に。2023年夏に寺から信長の朱印状が見つかったとの連絡を受けた市が真贋(しんがん)などの調査を進めてきた。

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滋賀県東近江市の百済寺で見つかった織田信長の朱印状と、調査を担当した東近江市森の文化推進課の明日一史参事=2025年4月28日午前11時59分、滋賀県東近江市役所、辻岡大助撮影

 調査を担当した市森の文化推進課の明日(あけひ)一史参事は「信長の祈願所」の条令に注目。「信長による焼き打ち以前の古文書はほとんど残っておらず、この朱印状は貴重な史料。中世の山岳寺院は武将の武運長久を祈っていたので、信長は百済寺を特別な場所として見いだしたのではないか」と話す。

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滋賀県東近江市の百済寺で約100年ぶりに見つかった織田信長の朱印状=東近江市提供

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