自身の経験を語る木村京子さん=2024年5月10日午前10時54分、広島市西区、魚住あかり撮影
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聞きたかったこと 広島

 「日陰で生きていかなきゃとは思わんかった」。広島市西区の木村京子さん(86)はそう語った。祖母と母、弟3人を原爆で失い、自身も被爆した。被爆者ゆえに向けられる偏見を感じながら歩んできた。

 8月6日、広島市中広町(現・西区)の実家にいると、早朝に大きな空襲警報が聞こえた。家の前の防空壕(ごう)に身を寄せていると、警報は鳴りやんだ。「学校行かなきゃいけんのかいな」

 当時は、天満国民学校(現・天満小学校)に通う2年生。この日、近所の寺で補習授業があった。まぶしい青空が広がっていた。

 本堂の中で座っていると、再び、爆撃機の音が聞こえてきた。いつもより大きな音だった。男の子が空を見上げて「B29じゃ!」と叫んだ。立ちあがろうとした途端、意識をなくした。1.4キロ先に原爆が落ちた。

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 目を覚ますと、つぶれた屋根の下にいた。明るい方向に向かって、はいつくばりながら外に出た。少し離れた屋根の下から、「おとうちゃん」「おかあちゃん」と声が聞こえた。助けられなかった。

 家の方に目をやると、火の手…

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