Re:Ron連載「知らないのは罪ですか?ー申請主義の壁ー」第13回(最終回)
「横山さん!」
10年ほど前のある冬の日、当時勤めていた病院の福祉相談室の前で、スーツ姿の男性に声をかけられました。見覚えのある顔でしたが、名乗られるまではっきりと思い出せませんでした。
彼はかつて、ネットカフェから救急搬送され入院した方で、私が生活保護の申請をサポートした人でした。
「生活も少し落ち着いてきたので、お礼を言いたくて」
彼は生活保護を利用して体調を整え、就職活動を始め、仕事が決まってから数カ月経っていると話してくれました。彼の再出発を心から喜びながらも、私の胸には言葉にならない重みが残りました。
もし彼が家賃支援の制度を早くから知っていれば、住まいを失うことはなかったかもしれない。
医療費の軽減制度を知っていれば、重症化して救急搬送されるまで受診を控えることもなかったはず。
そして、そもそも私とこのような形で出会う必要すらなかったのではないか。
そう。彼と私との出会いは、社会保障制度が抱える矛盾によってもたらされたものだったのです。
アクセスが「自助」に依存
これまで13回にわたり、社会保障制度における「申請主義」の問題について考えてきました。
社会保障制度は、誰もが安心して暮らせる社会を実現するための重要な基盤です。
しかし、この制度には深刻な矛盾が存在します。「セーフティーネット」と呼ばれながら、その利用には高いハードルがあり、必要な人に必要な制度が届いていない現実があります。
社会保障制度の多くは、利用者が自ら情報を集め、申請手続きを行うことを前提としています。しかし、制度の存在を知らない、複雑な手続きに対応できない、スティグマ(差別や偏見に基づく負の烙印〈らくいん〉)を恐れるなど、様々な理由で申請に至らない人々が数多く存在します。公助であるはずの制度へのアクセスが「自助」に依存してしまっているのです。
この問題に対応するためには、プッシュ型の情報提供や給付、オンライン申請の拡充、アウトリーチの強化、社会保障教育の充実など、多角的なアプローチが必要です。そして何より、私たちが社会保障制度の利用が権利であると強く意識しなくとも、それを行使することが当たり前だと認識している状況に社会を変えていくことが必要です。
最終回の今回は、これまでの議論を踏まえ、私たち一人ひとりが申請主義の壁を乗り越えるためにできる具体的な行動について考えてみたいと思います。
揺らがない「知る」「知らせる」ことの重要性
あらゆる制度がプッシュ型で情報提供されない以上、「知る」ことの重要性は揺らぐことはありません。
制度についての知識が少しでもあれば、「何か使える制度があるかもしれない」と考え、調べることにつながります。
例えば、生活保護を受給するための大前提となる「最低生活費という基準がある」ことを知っていれば、世の中で誤解されて伝わっている「若いから利用できない」「働いているから申請できない」という言説をうのみにせず、自分の状況を踏まえて利用を検討することができます。「医療費軽減制度がある」と知っていれば、経済的理由で治療を諦めることを防げます。
制度を詳しく覚える必要はありません。調べ方や「住んでいる地域の役所に相談すれば何かしらの情報が得られる」と知っていれば、いざというときに制度を利用できる可能性が大きく高まります。
また、身近な人からの一言は、単なる情報以上の安心感を相手に与え、相談や制度利用の後押しになるかもしれません。
本連載では、友人や知り合いに教えてもらったという理由で相談に来た人のエピソードや、会社から制度を紹介された場合の方が制度利用率が高かったといった調査結果を紹介しました。
以前お話を伺ったてんかんの患者さんは、自立支援医療制度の対象にてんかんが含まれることをインターネットを通して情報としては知っていましたが、誰からも詳しい説明を受けたことがなかったため、自分は利用できないだろうと思い込んでいたと言います。しかし、自助グループに参加して同じ病気の人が実際に制度を利用している話を聞き、申請手続きについての具体的な情報も得られたことで、ようやく自分も制度を利用するに至ったそうです。
- 【第9回】社会保障制度、知ってても利用に壁…打ち崩す「同じ境遇」の仲間たち
身近な人や知り合いが困っていることに気づいたら、ぜひ「こういう制度があるよ」と伝えてください。その一言が、誰かの人生を大きく変える可能性があります。
第10回では、10代で社会保障制度などについての知識を身につけたかったという若者がいることを示した調査結果を紹介しました。
- 【第10回】家族介護、借金か退学…追い込まれる若者へ、福祉にできることがある
多くの若者は社会保障についての正確な情報を得る機会が乏しい状況にあります。第5回で紹介した高校生のように、「最低生活費という基準があることを初めて知った。生活保護って働けない人が利用するものだと思っていた」という誤解は珍しくありません。
- 【第5回】医師の「働いてる?うそおっしゃい」 福祉利用者のスティグマ解く鍵
義務教育や高校、大学などで社会保障制度について体系的に学び、必要なときに適切に利用できる知識を身につける機会をつくることは非常に重要です。知識は制度へのアクセスを可能にするだけでなく、社会全体の認識を変える力にもなり得ます。
2020年のコロナ禍の際…