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写真・図版
高橋七重さん=2025年9月8日、神奈川県秦野市西大竹、中島秀憲撮影

 特攻隊などで命を落とした若き飛行兵2人についての8月の記事を読んだ神奈川県秦野市の高橋七重さん(92)から、朝日新聞に手紙が届いた。80年前、記事と同じような少年たちと、出撃直前に出会った記憶がつづられていた。記者が直接会いに行き、話を聞いた。

 記事は8月5日付の神奈川版。「相模陸軍飛行場」があった愛川町の郷土資料館の企画展で展示された、18歳と21歳で戦死した飛行兵を紹介していた。高橋さんの手紙には、大戦末期に同年代の少年兵たちが、飛行士の「トレードマーク」でもあった白い絹のマフラーを求めて自宅にやってきたことが書かれていた。

  • 飛び立った少年兵ら 悲劇の記録 陸軍飛行場あった愛川町で企画展

 1945(昭和20)年4月下旬のある夜、横浜市・根岸に住んでいた高橋さん(旧姓小泉)の自宅の窓ガラスをたたく音がした。戸をそっと開けると、軍服姿の少年が2人。「私たちにも、マフラーにする白絹をください」と言った。

翌日夜に1人、次の晩に2人……

 高橋さんの父、小泉良雄さんは当時、絹を取り扱う会社に勤務していた。数日前、会社の部下から「おいが飛行機で出撃する。マフラーが欲しい」と相談を受けた。そのころ会社には在庫がなく、良雄さんは自宅にあった一巻きの白絹地を切って渡していた。

 それを聞きつけたのだろう。終着駅の桜木町から、歩けば1時間以上ある距離を、少年2人は訪れたのだった。

 良雄さんは黙って奥の部屋から白絹地を出し、切り分けた。「おいくらですか」と尋ねられた良雄さんが「いいえ、差し上げます」と言うと、2人はうれしそうに胸元に収めた。その姿を、高橋さんは鮮明に覚えている。

 当時、横浜山手女学院(現・フェリス女学院)の中学1年だった高橋さんに、少年の一人が年齢を尋ねた。答えると、「あっ、妹と同じだ」と肩に手を置いた。

 敬礼をして暗い夜道を引き返…

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