朝日俳壇

俳句時評 岸本尚毅

 歌壇俳壇面で月1回掲載している、俳人の岸本尚毅さんの「俳句時評」。今回は明治に起きた日本近代最大の農民蜂起「秩父事件」の幹部として追われ、名を変えて逃亡の後半生を送りながら俳人として生き続けた井上伝蔵の句を、中嶋鬼谷さんの近著から紹介します。

 病む母と居(お)るも楽しき年忘れ 逸井(いっせい)

 家族が集う忘年の宴だろう。老母は病身だ。そんな母でも、否、だからこそ一緒に居ることが楽しい。「楽しき」の一語が何と生き生きとしていることか。

 「逸井」は秩父事件以前の井上伝蔵の俳号だ。蜂起した農民軍の幹部だった伝蔵は、欠席裁判で死刑の判決を受け、北海道に逃亡。伊藤房次郎と名を変えて家庭を持ち、現在の石狩、札幌、北見の各市に住んだ。一九一八年に六十四歳で逝去。その直前に自分の素性を妻子に明かしたという。

 秩父の旧家出身の伝蔵は俳句の嗜(たしな)みがあり、北海道での俳号は柳蛙(りゅうあ)という。

 雲に鳥入るや白帆のならぶ上…

共有
Exit mobile version