擬似的に整備された北ノ庄城の石垣と堀=筆者撮影

北ノ庄城

 織田信長は「理想の上司」として選ばれる人気武将のひとりである。確かに信長は戦国の世を鎮め、近世への転換を押し進めた。城づくりでも、信長自身が住む本丸や詰丸(つめのまる)(本丸の上位空間)を中心とした階層的な城づくりを達成して、近世城郭の基本形を確立した。やはり信長は卓越した人物ではあった。

 しかし近年の研究で、組織のトップとしての信長の評判はあまりよくない。信長は家臣に対して統一したルールを示さず、大方針だけを示して丸投げしていたからである。その信長が示した大方針とは「武辺道」だった。たとえば1575(天正3)年に越前国(現在の福井県)を与えた柴田勝家に、信長は掟(おきて)を下した。そこには「第一武辺簡要に候」とあって、信長が勝家に最も求めたのが武辺道だったとわかる。

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 ここでいう武辺道は、勇敢に戦うだけではなく、油断せずに武具や兵糧を蓄え、自身の石高にふさわしい数の家臣を召し抱え、手柄を立てた家臣に恩賞を与えて忠義心を高めることであった。それではどれくらい武具や兵糧を蓄え、直臣を増やしたら信長の求める武辺道に適(かな)うかは、信長は決めなかった。

 細かなことに口出ししないト…

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