高校野球の発展や育成に尽力した指導者を、日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する「育成功労賞」に、南北海道からは北海を春夏6回の甲子園出場に導いた大西昌美さん(67)、北北海道からは北海道高野連の常務理事を務めた小島誠さん(66)が選ばれた。両氏は15日、選手権大会が開かれている、阪神甲子園球場で表彰された。
元北海監督の大西昌美さん、「教え子たちのおかげ」
大西さんは日本体育大を卒業後、母校の東京・日本学園高で事務職員をしながら、コーチや監督を務め、西東京で好成績を残していた。
同じ頃、甲子園での勝利から遠ざかっていた北海から指導者にと声がかかり、体育教員として採用された。コーチを経て1986年、29歳で監督に。北海では初めての「外様監督」だった。
周囲は敵ばかり。試合で敗れ、観客からビンやカンを投げつけられたことも。
甲子園常連校のプライドを持った選手たちに、まず徹底したのはルールの勉強だ。「そんなことも知らないの?」。ルールを熟知した、頭脳的な野球を浸透させた。守備を鍛え、個々の能力だけに頼った豪快な野球から、チーム力、組織力で戦う集団に変身させた。
監督生活は11年間。1994年夏に30年ぶりに勝つなどベスト8進出が最高戦績。2回戦では、初の北海道勢対決で、砂川北を破った。
当初から40歳で高校野球の現場から退くと決めていた。大学でも指導した後、今では野球とは無縁の生活を送る。愛犬のグレートピレニーズの散歩が楽しみにしている日課だという。
北海の古豪復活の礎を築き、指導者に多くの人材を残した。教え子のひとり、後を託した北海の平川敦監督は2016年、全国選手権準優勝。国際情報の有倉雅史監督、札幌光星の合坂真吾監督らもそうだ。
「教え子が指導者になって頑張ってくれているおかげでもらえた賞」。北海道の地には大西イズムが確かに受け継がれている。(鈴木優香)
帯広工元監督・小島誠さん チームワークの前に個人の責任を指導
小島さんは旭川龍谷の2年生だった1975年、三塁手として夏の甲子園の土を踏んだ。同校が3年連続で北北海道大会を制した最後の年。甲子園では、その夏に全国制覇した習志野に敗れたが、最後までくい下がった。
「一生、高校野球に関わりたい」。高校野球の指導者を志し、最初は中学校教諭でスタート。90年に甲子園の出場経験もある帯広工に赴任し、監督となった。
指導では、「チームワーク」という言葉を考えさせることに気を配った。仲間のミスを補い、団結すること自体はいい。だが、その前に与えられた責任を果たすことを求めた。「投手と打者が対決する。団体競技でも野球は極めて個人的なスポーツ。はき違えてほしくなかった」
根っこは野球少年。上から指導するよりも選手と一緒に汗をかいた。毎朝バッティング投手として300~400球を投げ、打球音を通じて選手と対話した。次男の隼さん(現・旭川明成コーチ)と親子鷹で北大会に臨んだこともあった。
帯広工の監督は18年間。2009年に故郷の旭川に戻り、旭川東栄、旭川農では主に部長を務め、同時に北海道高校野球連盟の常務理事として北大会の運営に携わった。
19年に退職後も北大会のボランティアの補助として毎夏、旭川スタルヒン球場に足を運ぶ。その翌年からは試合を中継する地元ケーブルテレビ局の解説者の一人となり、温厚な語り口で球児たちの頑張る姿を伝えている。今年は決勝など4試合を担当した。
ベンチから見るのとは違い、モニター越しだと配球の意味や打者の弱点がわかる。監督の個性や采配の妙も感じて、「自分もあのときこうすればと考えることもありますよ」。冗談まじりに苦笑した。(古源盛一)