Smiley face
写真・図版
取材に応じる渡部敦子さん=2025年3月4日、栃木県那須塩原市、川村直子撮影
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版

 旧満州などからの引き揚げ者による開拓で知られる栃木県の那須地域。その中には、激戦に見舞われた硫黄島の住民もいた。豊かだった南国、避難先の東京を立て続けに襲った空襲、那須の荒野での厳しい暮らし――。いまや数少なくなった開拓1世に、これまでの歩みを聞いた。

 「どの家でも庭にマンゴー、パイナップルなどの果物が実り、本当に楽園のようでした」

 那須町大日向地区に住む渡部敦子さん(95)は硫黄島での暮らしをそう振り返る。

 島は東京から南に約1250キロ、那覇や台湾と緯度が近い亜熱帯に位置する。その西海岸にある家で生まれた。明治時代に入植した祖父がカツオドリの羽毛を採取する仕事を始め、父親は島唯一の木びきとして船の修理などをなりわいとしていたという。

 海鳥のふんで肥えた土地では、肥料なしでも作物は大きく育った。硫黄の採掘やサトウキビの栽培などが行われ、島全体が豊かだった。「教育も本土に劣らないもので、同級生だけで3人が学校の先生になりました」

 そんな生活は、戦況の悪化で一転する。小学6年のころからは勤労奉仕で飛行場づくりに動員された。自宅は米軍の攻撃で板切れ一つ残らず破壊され、島での思い出の品は一つもない。

「いつかは島に……」語り合った友も少なく

 忘れられないのは1944年…

共有