長かった我慢の時を経ての快進撃だった。阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で開催中の第106回全国高校野球選手権大会(日本高校野球連盟、朝日新聞社主催)に32年ぶりに出場した島根代表の大社は、93年ぶりの8強入りを果たした。島根県民や地元・出雲の市民を熱狂させるとともに、全国の高校野球ファンに大社という古豪の名を、鮮やかによみがえらせた。
「うちは打てませんから」。この夏、石飛文太監督は何度も言った。確かに甲子園での4試合で長打は、準々決勝で高梨壱盛、高橋蒼空(そら)(ともに3年)の両選手が放った二塁打2本のみ。しかし、安打数が相手校を下回ったのはその準々決勝だけと、「打たせない野球」が印象的だった。
立役者は無論、左腕エースの馬庭優太投手(同)。3回戦まで3試合を完投し自責点3。準々決勝では五回途中から登板し、疲れが見えた七回に4連続長短打を浴びるなどして4点を奪われたが、島根大会から見せた「変幻自在」の投球は、相手打線にねらいを絞らせなかった。
馬庭投手は甲子園のマウンドについて「大勢の観客の前で緊張もしたけど、わくわくした」。そして、身をもって知った全国レベルに、プロをめざす気持ちが改めて強まったという。「自分より上の選手はいっぱいいる。まだまだ満足しない」
馬庭投手の好投を引き出したのは、捕手でまとめ役の石原勇翔主将(同)だ。「1イニングに複数点を取られない」「自分たちの目標をぶらさないぞ」と、準々決勝の苦しい場面でもマウンドに仲間を集め、確認し合った。
走攻守で、ミスはある程度の割合で必ず出る。だが、その連鎖は起こさない。失策、暴投を減らし、走者を出したら確実に進め、1点を取る。大社はそれを甲子園でも体現した。
石原主将はチームの強みを「気持ちがぶれない」と表現した。石飛監督も「選手がやりたいことと、やるべきことのずれがあったのが昨年まで。今のチームはみんなの目標が、ぶれずに定まっていた」。
勝ち進むごとに甲子園の応援のボルテージも上昇。藤原佑選手(同)は「球場全体が自分のチームを見守ってくれている感じだった」と振り返った。
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甲子園取材は、担当記者にとっても32年ぶりだった。当時、県岐阜商の取材担当で、神戸市須磨区の旅館で大社、西日本短大付(福岡県)とともに同宿。選手たちは大広間に布団を並べ、洗濯機を取り合ったり譲り合ったり。当時の大社のエースだった大内秀則コーチもその中にいた。その旅館も、1995年の阪神・淡路大震災で被災し、今はない。時の流れと縁を感じる不思議な取材でもあった。(中川史)