広島に落とされた原爆で全滅した町の片隅に、小さな寺があった。建物も人も、何もかも失ってから80年。そこに、自分らしい道を模索している一人の住職がいる。
宮木啓輔さん(42)は二つの顔を持つ。一つは、米サンフランシスコの病院で、チャプレン(聖職者)として患者の話に耳を傾ける。もう一つは、広島市にある浄土真宗本願寺派の教念寺の第20代住職。日米を行き来する生活を続けている。
教念寺は安土桃山時代の1500年代後半に開基した。1900年代には、啓輔さんの曽祖父で17代住職の惠雲(えうん)さんがハワイへ渡り、日系移民に布教した記録がある。広島原爆戦災誌には、中島地区の天神町にあった主要建物として記されている。
中島地区は食堂や旅館などが並ぶ、広島県下有数の繁華街だった。45年8月6日、米軍が原爆を投下。天神町は爆心地に近く、町ごと壊滅した。惠雲さん亡き後、坊守(ぼうもり)として寺を支えていた妻のちよさん(当時50歳)、広島高等師範学校生だった三男の洵(ひとし)さん(当時18歳)が死亡した。
寺の再建に奔走したのが、啓輔さんの祖父、思雲(しうん)さんだ。46年5月、出征先のニューブリテン島ラバウル(現パプアニューギニア)から帰ると、一帯は焼け野原で、寺は破壊され、墓石の多くは、爆風に飛ばされていた。
中島地区は広島平和記念公園の一部となり、寺は地区の南部、現在の羽衣町へ移った。
思雲さんは18代住職として寺を再興し、地域で法要や寺の事務をこなした。同時に、中国新聞の記者として暴力団撲滅の報道に力を注ぎ、編集局長にもなった。
二足のわらじをはいた祖父の…