広島市の平和記念式典で黙禱(もくとう)が捧げられていたころ、米軍が原子爆弾を組み立て、積み込み、飛び立った場所に、少しずつ人が集まり始めた。
南東に約2500キロ離れた北マリアナ諸島テニアンに、原爆部隊の基地「ノースフィールド」の跡地がある。ここで午前10時(日本時間午前9時)から式典が開かれた。
テニアン市が主催するもので、被爆60年の2005年に開かれて以来だ。当時20年ごとに開くことを決め、被爆80年の今回、島民や米軍人ら約200人が参列した。
会場は、原爆をB29爆撃機に搭載した場所「原爆ピット」の周辺。今年、広島、長崎それぞれに落とされた原爆の原寸大レプリカが置かれた。
式典では、島在住の米国人歴史家のドン・ファレルさん(78)が「二つの原爆によってたくさんの日本人の命が失われたが、米軍による日本本土への進攻を防ぐことができた」と基調講演した。
一方、テニアンのエドウィン・アルダン市長(55)は「かつて原爆が積み込まれたこの場所はいま、対話、学び、そして団結の場所へと生まれ変わろうとしている」とあいさつした。
米空軍や海軍の制服を着た人々が耳を傾けた。米国、日本、北マリアナ諸島の旗が掲げられ、米国歌が流れると参列者のほとんどが胸に手を当てた。
グアム北東部のアンダーセン空軍基地から参列したアンソニー・フォンタナタ大佐(47)は朝日新聞の取材に、「非常に厳粛な式典で、軍人として謙虚な気持ちにさせられ、心に響いた」と語った。原爆投下の正当性については、「答える気にはなれない。太平洋戦争で亡くなった人びとを追悼し、現在のパートナーシップを確認する行事だと考えたい」と話した。
原爆投下機が飛び立った唯一の島という重荷を背負わされたテニアン。この80年、原爆とどう向き合ってきたのか。
テニアンにとって、原爆の歴史とは
日本の敗戦後、テニアンを含…