原爆投下の数日後に広島市で撮影された写真「手押し車で運ばれる母子」に、顔を包帯で巻いた状態で写る広島市の吉田恵美子さんが8月29日、死去した。86歳だった。写真は国内外で原爆の非人道性を伝え、吉田さんも「母の手にひかれ、真っ黒な遺体が横たわる街を逃げたことを今もはっきりと覚えている」と高校生や孫に原爆の被害を伝えてきた。
当時6歳の少女 両親と救護所へ
写真には、やけどをした当時6歳の吉田さんと、その後ろでやつれた表情の母の相崎ハツヨさん、2人を乗せた手押し車を無表情で押す父の相崎仙太郎さんが写る。
撮影は、朝日新聞大阪本社写真部の宮武甫(はじめ)さん(故人)。広島への原爆投下直後の1945年8月9~12日、中部軍管区司令部(大阪市)の命令で「宣伝工作」の写真を撮るために広島に入り、吉田さん一家も含めた119枚を撮影。戦後、連合国軍のプレスコードで原爆報道が制限される中、焼却を求められたが、ひそかに自宅に持ち帰り隠した。
こうして保存された吉田さん一家を含む広島の写真は、プレスコードが解けた後の52年8月、雑誌「アサヒグラフ」が組んだ特集「原爆被害の初公開」に掲載されて注目を集め、国内外の出版物に掲載された。
ただ、一家が写真の存在を知ったのは被爆34年後。吉田さんは2006年の朝日新聞の取材に「お母さんと似た写真が新聞に載っている、と近所の人に教えてもらった。過去は振り返るまいと生きてきたが、(写真で)あの日をしっかり心に刻みなさいと言われた気がした」と語った。
「写していらん」母が一喝 その後は
吉田さんによると、原爆投下…