「一人ひとりができる平和を探して行動してくださいと、講話の最後に言うんですよ」と語る今道忍さん=2024年10月6日、長崎市、小川崇撮影

■ナガサキノート 今道忍さん=1937年生まれ

 長崎県長与町の今道忍さん(88)が被爆講話に取り組み始めて5年になる。

 「自分の家族が亡くなったとか、そういう強烈な被爆体験をしていないから、無理だろうと思っていた」

 それでも、昨年秋、修学旅行で訪れた小学生などに20回以上の講話を行った。

 今道さんは、周囲に造船所などがある長崎市西泊町で生まれ育った。終戦の年の1945年、国民学校の3年生だった。

 教師からは、「日本は昔から神の国だ。これまで神風が吹いて戦争に勝ってきた。今度の戦争も勝つが、苦しい思いをするかもしれない。我慢しろ」。そう言われた。

 幼なじみの親友が近所にいた。一緒に勉強をし、互いの家を行き来した。その親友が8月5日に長崎市の浜口町方面に引っ越した。父親が戦死したため、母親の実家に転居するという。

 引っ越し当日、見送りに行った。「また遊ぼう」。親友の母親が、転居先の地図を描いてくれた。家に戻り、父親に話すと、「電車も通っているし、今度連れてってやる」。また会えるのが楽しみだった。

 8月9日朝、空襲警報が鳴り、自宅裏の防空壕(ごう)に避難した。まもなく解除され、祖母と幼い弟たちを残して母と自宅に戻った。今道さんは勉強をしながら、合間に剣玉をして遊んでいた。

 突然、家が大きく揺れた。棚や仏壇が倒れ、窓ガラスが割れた。泣き叫んでいると、母親が手を取って押し入れに押し込んだ。

一面の焼け野原、親友の家は…

 母親は、父親の安否を確認す…

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