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原爆症認定申請の却下通知を手にする男性。「86歳やし、いまさらぜいたく言うたらあかんかな」としつつ、「小さい頃から病気で悩まされてきた。原爆が原因だと認めてもらえるならうれしい」と話した=2024年7月29日午後2時27分、神戸市、大滝哲彰撮影

 原爆の放射線で健康を害する「原爆症」の認定を国に求める訴訟が全国で唯一、大阪地裁で続く。過去の訴訟で国の敗訴が相次ぎ、認定基準は改められたが、なお壁は高い。原告男性(86)=神戸市=の弁護団は「もう時間がない」と訴える。

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 「原爆がいつ、どう自分の人生に降りかかってくるか、ずっと悩まされてきた。この年齢になっても……」

爆風で吹き飛ばされ、泣きながら自宅へ

 よく晴れた日だった。1945年8月9日。国民学校2年生だった男性は、長崎市中心部から少し離れた自宅そばで、友人とトンボを追いかけていた。

 ゴォォォォ。突然の飛行機の爆音に、慌てて帰宅しようとすると鋭い光を感じた。石段を駆け下りていたが、爆風で吹き飛ばされた。

 大きなけがはなかった。泣きながら歩いて帰ると、母は、自宅前を歩く人たちから求められ、水をあげていた。その人たちの顔は真っ黒で、目の縁だけが白くなっていた。爆心地から2・5㌔でのことだ。

 戦後、小学校高学年になると、極度の貧血に苦しんだ。校庭での朝礼で立っていられず、うずくまってしまう。激しい運動はできず、高校時代の体育はほとんど見学していた。

 いつも顔色が悪く、周りからは「青びょうたん」と呼ばれていた。少しでも肌を焼こうと、よく縁側で日に当たっていた。

 就職面接では「君の体では長く働けない」と言われ、5社から不採用を言い渡された。ようやく就職できたのが、大阪のメーカーの営業職だった。

甲状腺機能低下症で原爆症申請

 その後、大きな病気にかかることもなかったが、異変は40代後半に起きた。

 白血球減少症、変形脊椎(せ…

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