原爆の放射線で健康を害する「原爆症」の認定を国に求める訴訟が全国で唯一、大阪地裁で続く。過去の訴訟で国の敗訴が相次ぎ、認定基準は改められたが、なお壁は高い。原告男性(86)=神戸市=の弁護団は「もう時間がない」と訴える。
- 「地域の線引き」めぐり長崎地裁で原告の一部を被爆者と認める判決
「原爆がいつ、どう自分の人生に降りかかってくるか、ずっと悩まされてきた。この年齢になっても……」
爆風で吹き飛ばされ、泣きながら自宅へ
よく晴れた日だった。1945年8月9日。国民学校2年生だった男性は、長崎市中心部から少し離れた自宅そばで、友人とトンボを追いかけていた。
ゴォォォォ。突然の飛行機の爆音に、慌てて帰宅しようとすると鋭い光を感じた。石段を駆け下りていたが、爆風で吹き飛ばされた。
大きなけがはなかった。泣きながら歩いて帰ると、母は、自宅前を歩く人たちから求められ、水をあげていた。その人たちの顔は真っ黒で、目の縁だけが白くなっていた。爆心地から2・5㌔でのことだ。
戦後、小学校高学年になると、極度の貧血に苦しんだ。校庭での朝礼で立っていられず、うずくまってしまう。激しい運動はできず、高校時代の体育はほとんど見学していた。
いつも顔色が悪く、周りからは「青びょうたん」と呼ばれていた。少しでも肌を焼こうと、よく縁側で日に当たっていた。
就職面接では「君の体では長く働けない」と言われ、5社から不採用を言い渡された。ようやく就職できたのが、大阪のメーカーの営業職だった。
甲状腺機能低下症で原爆症申請
その後、大きな病気にかかることもなかったが、異変は40代後半に起きた。
白血球減少症、変形脊椎(せ…