青空の下、春らんまんと咲く桜が恨めしかった。もう、桜を心から美しいと思う日は来ないだろうと思った。
6年前の4月4日。細田文子さん(77)は病室で夫を待っていた。初期の肺がんの手術を終え、埼玉県立がんセンターから一度退院する日だった。
連載「桜ものがたり」一覧
桜の風景とともに思い出す大切な記憶。読者のみなさまから寄せて頂いた、桜の物語をお届けします。
かかりつけ医から紹介されたがんセンターで、「もう一つがんがある」と告げられたのは3月初旬。肺がんの疑いから受けた全身検査で、乳がんも見つかった。多重がんという言葉を初めて知った。30代から定期的に受けてきたがん検診を、孫の世話や自身の骨折などを理由に3年間だけ受けなかった自分を責めた。
味覚も嗅覚(きゅうかく)もなくなった。夜は眠れず、涙は毎日のようにこぼれ落ちた。自分の力ではどうにもならない、そんなことは初めてだった。壊れそうな心を支えるため、精神科医も頼った。
乳がんの手術は5月。病理診断を経て、転移の有無が確定する。
執刀医がふらっと病室を訪ねてきた。「きれいね」。沈黙の中、窓辺で2人で桜を眺めた。「この部屋でよかったね」。彼女にそう言われて、心が少し、前を向いた。この先生でよかった、と思った。
幸い転移はなかった。抗がん剤治療を経て、今は経過観察で、春と秋に病院に通う。
「来年も見られますように」。桜に祈る。生きている幸せをかみしめる。