連載・台湾少年工の戦後3 少年工が造った人間爆弾
連載・台湾少年工の戦後1 台湾からやって来た8400人
先の大戦中、戦闘機を造るため台湾から日本へやってきた「少年工」たちがいた。戦後80年。いまや東北を訪れるインバウンドの約半数が台湾からの宿泊客が占めるようになるなど、日台交流は盛んだ。その土台にもなった、台湾少年工たちの80年を追う。
「幼い頃から飛行機と機械いじりが好きだった。『日本で飛行機を造れるなら』と応募した」
台湾・台北市の集合住宅で、元少年工の東俊賢さん(95)は、日本語でそう振り返る。当時14歳。工業学校電気科への進学を希望していたが、父に「感電するので危ない」と反対され、渋々商業学校に進学していた。両親は日本行きに反対だったが、親に黙って願書に判子を押し、提出した。「父からは後で『なんでこんな馬鹿なことを』と叱られました」
日本に到着し、高座海軍工廠(こうしょう)に数日滞在した後、東さんが配属されたのは、神奈川県横須賀市にある海軍航空技術廠(空技廠)だった。世界最高レベルの研究施設で、数万人の技術者らがロケット戦闘機などの開発に取り組んでいた。
東さんはそこで一般工員では…