連載「100年をたどる旅~未来のための近現代史」憲法編

100年をたどる旅 憲法編

 今から140年ほど前の1889年、明治憲法(大日本帝国憲法)を作って近代立憲主義のプロジェクトをスタートさせた日本。1925年には男子普通選挙を実現する一方、戦争の時代に突入するとそのプロジェクトは挫折した。戦後の日本国憲法の下で再開させることになったが、何が問題だったのか。プロジェクトの未来に希望はあるのか。憲法学者の江藤祥平・一橋大学教授に話を聞いた。

 ――100年前の1925年、男子普通選挙が実現する一方で、治安維持法が制定されました。両者が同時期に生まれたことをどう見ますか。

 「普通選挙法を実現するうえで体制側が恐れていたのは、共産主義運動の高まりでした。治安維持法は1条で『国体の変革』や『私有財産制度の否認』を目的とする結社などに刑罰を科す、としています」

 「新たに有権者となったその多くが労働者や農民でした。体制が不安定になることを恐れた政府には、民主主義の勢いをそぐ狙いがありました」

 ――両者の抱き合わせは、明治憲法(大日本帝国憲法)体制を象徴している気がします。明治憲法の構造が、権力分立や民選議院といった自由主義や民主主義に即した面と、天皇の統治権を広く認める面を抱え込んでいるからです。

 「後者の点でいえば、明治憲法を起草した伊藤博文は、欧州を訪問した際、憲法政治の機軸として『宗教』があるが、日本にはそれがないと気づきます。『我が国に在りて機軸とすべきは独り皇室あるのみ』と考えた伊藤は、明治憲法の正統性の根拠を『万世一系の天皇』という神話に求めました」

 ――1935年の天皇機関説事件で、後者が前者をのみ込んでしまいます。憲法学者で東京帝国大学名誉教授の美濃部達吉の学説が、「国体に反する」と国粋主義者らの排撃キャンペーンを受け、著作は発禁処分となり、美濃部は公職を追われました。

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