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 阪神・淡路大震災から来年1月で30年。神戸市長田区で進められてきた震災復興の再開発事業が、ようやく終わりを迎えた。地震後の大火で焼け野原になった下町は、44棟のビル街に生まれ変わった。多くの住民が巻き込まれたこの巨大プロジェクトに、発災直後から約30年間にわたって「伴走」してきた人がいる。

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兵庫県震災復興研究センターの事務局長を務める出口俊一さん=2024年11月21日、神戸市長田区の事務所前、杉山あかり撮影

 出口俊一さん(76)。民間の研究機関「兵庫県震災復興研究センター」の事務局長を務める。

 長田区の再開発は、神戸市が震災直後からJR新長田駅前の「新長田駅南地区」で進めてきた。530棟が全焼、291棟が全半壊した地区の土地と建物をすべて買収し、新しくビルを建設する計画で、最後の1棟が今年10月末に完成した。

  • 震災30年、最後の復興事業完了 人口は増えたけど「希望持てない」

 出口さんの研究センターの事務所は、再開発地区の外側、戦後の木造住宅が連なる神戸市長田区の下町にある。100メートルほど先に、地区内に立ったマンションが見える。

 「この風景を見て『新長田やなぁ』って思うんです。震災前は一体だったコミュニティーが、マンションと下町の間で切れている気がする」

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新長田駅南地区の地図

長屋や商店が立ち並んだ街

 再開発地区はかつて、ケミカルシューズ産業で栄え、長屋や商店が立ち並ぶ下町だった。

 震災前まで、出口さんは長田の街づくりに関わったことはない。中学生のころ、島崎藤村の小説「破戒」を読み、同和教育や人権に関心があった。尼崎で教員になり、県教職員組合の執行委員長などを務め、県労働運動総合研究所にいた46歳の時、震災が起きた。

 兵庫県西宮市の自宅は半壊。家族は無事だった。約1カ月後にJR新長田駅を訪れると、焼け野原が広がっていた。

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震災後、神戸市長田区の周辺では大規模な火災が相次いだ=1995年1月17日、神戸市長田区

 崩れ落ちたがれきを見て思った。ここにいた人たちは、どうなっているのか――。

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