1970年の大阪万博で、多くの来場者を魅了したパビリオン群はどうなったのか? 有名な「太陽の塔」も、テーマ館というパビリオンの一部だった。大半のパビリオンは閉幕後に取り壊されたが、個人の家や海外に移築されたものもある。

 日本国際博覧会協会によると、大阪万博では86の国際館と企業館のうち、28のパビリオンが移築された。

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 パビリオンを追跡調査している大阪公立大学の橋爪紳也特別教授(建築史学)は「建物全体が現存するパビリオンは六つ」と話す。鉄鋼館、大阪日本民芸館、カンボジア館、ミュンヘン市館、ラオス館、サンヨー館だ。

 神戸市北区の「広陵町自治会館集会所」はかつて、カンボジア館だった。

カンボジア館だった集会所の前に立つ広陵町自治会長の田中収さん=2025年7月2日、神戸市北区、松尾葉奈撮影

 住宅会社が「宅地造成のシンボル」として移築、92年に地域に寄贈された。近所の人たちが集う場所として愛され、今でも「パビリオン」と呼ばれる。

 自治会長の田中収さん(76)は「パビリオンは地域の誇り」という。老朽化から2017年に改修した際も、住民から取り壊しを求める言葉は出なかったという。「これまで落書きされたこともない。大事に大事に使ってきた」

 毎年11月に集会所で開く「文化祭」にはカンボジアの留学生や領事館関係者も訪れる。

 広陵児童館の館長でもある田中さんは願う。「さらに50年経っても使われていてほしい。子どもたちのふるさとの風景に、パビリオンがあってほしい」

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