小説家の市川沙央さん=諫山卓弥撮影

寄稿・市川沙央さん 小説家

 「対話でさぐる 共生の未来」

 昨年秋に東京ミッドタウン八重洲カンファレンスで開催された朝日新聞社主催の一大イベント「朝日地球会議2024」のテーマです。SNSでフォローする作家さんの登壇告知ポストから興味を持ち、イベント内容を公式サイトでチェックした私は、とても驚いてしまいました。〔誰ひとり取り残さず、すべての人が暮らしやすい持続可能な地球と社会について、みなさまとともに考えていく「朝日地球会議」〕。輝かしい理念に続いて紹介される70人近い登壇者は、すべて元気そうな人ばかり。障害当事者や家族あるいは支援者の立場の人すら、一人もいないのです。高校生・大学生ゲストの10人を含めれば、登壇者合計76人中のゼロ。20以上を数えるプログラム(セッション)のテーマにも、障害者に関するものは一つもないようです。では会場参加者のアクセシビリティはどうなっているのかと、事務局に問い合わせてみたところ、各セッションに手話通訳も同時字幕も用意されていない旨のお返事をいただきました。

 均質的な知性および移動や会話に困難のない健常な身体を持った人だけを76人も集めて、聴衆に聞こえや認知のアクセシビリティを保障する意志も感じられない「対話でさぐる 共生の未来」。朝日新聞は、いったい誰と、何と共生するつもりなんだろう。

 ……クマ?

 「共生」は、地球環境や生物、異文化などさまざまな文脈で使われる言葉ではありますが、「共生社会」を検索すれば分かるように、我が国ではまず第一義に障害者の包摂を考えるための言葉だったはずです。とりわけて日本は「相模原障害者施設殺傷事件」という凄惨(せいさん)な障害者大量殺戮(さつりく)事件が起きた国なのですよ。あの事件以後の我が国で「共生」の語を使うことの意味と義務について、「朝日地球会議2024」の企画立案者と承認者の頭には一片も浮かぶことがなかったというなら、残念な思いを通り越して、何かもっと極めて深刻な問題が〈私〉とあなたがたの間に横たわっているのじゃないか。そんな疑いが湧いてくるのです。〈私〉とは一市民でありまた一障害者としてこの社会に暮らし、ついでに言えば朝日新聞デジタルを購読する一人でもある市川沙央という私のことですが。

 アクセシビリティに関して無理な要求はしていません。同時期に東京国際フォーラムで行われていた東京都主催の「だれもが文化でつながる国際会議」では、手話通訳・同時字幕、パンフレットのテキストデータ提供があるだけでなく、それらアクセシビリティサポートの情報が公式サイトのトップに明記されています。ただでさえ障害者はどこへ行こうとしても下調べと事前連絡を課され〈問い合わせ疲れ〉をしています。そもそもドアが開いているかどうか分からない場所に、必要もないのにわざわざ行ってみようとは思わないでしょう。クローズドな健常者ファーストの場を作っておいて、あたかもサポートのニーズが存在しないように見せかける、それのどこが「対話でさぐる 共生の未来」なのでしょうか。重箱の隅をつつくようですが「朝日地球会議」公式Xは、8月末現在で投稿する画像にALT(代替テキスト)を付けてすらいませんね。

 誤解のないように言っておきます。私は障害者への配慮の不足を批判しているのではない。

 「共生」という語をめぐる思考の不徹底を問うているのです。

「共生」をめぐる思考の不徹底

 (字幕は付きませんがその代わり)各セッションの内容は後日、朝日新聞紙面や朝日新聞デジタルでご紹介予定です――と事務局から教えていただいたので、抄録記事を読みました。私は朝日新聞の現状認識に対して、なお疑問を深めざるを得ませんでした。朝日新聞が新語を作成し力を入れている「8がけ社会」……社会を支える現役世代が今の8割になり、様々な業種で人手不足が深刻化する社会危機。この問題意識に関連して設定された朝日地球会議の議題はどれも、今この社会で障害者が経験させられている現実とあまりにも乖離(かいり)している。朝日新聞の関心は、生産力とサービスが縮小して服装や嗜好(しこう)品の選択肢が減ってしまう未来を受け入れて楽しめるかどうか、ということにあるらしい。朝日新聞にとって、知識人を集めて語り合うべき不安とは、嗜好品の選択肢の多いか少ないか、そしてそれを楽しめるか楽しめないかくらいのものなのですか。在宅の寝たきりの人がもう十年以上も前から、訪問入浴のスタッフが集まらず今週はお風呂に入れるかどうか分からない、という綱渡りの生活をしているのに?

 マイノリティの訴える困難や課題が、マジョリティの関心事にいつのまにかすり替えられ、小さく弱い声がかき消されてしまうのは、非常によくあることです。マイノリティの運動の簒奪(さんだつ)、などとも呼ばれています。しかしよりによって「共生」という言葉を簒奪するとは。障害者を対話(セッション)から排除し、人手不足が及ぼす今日明日の生活の不安、生存権すらおぼつかないかもしれない未来への危機感を、健常者の感覚で嗜好品の選択肢の問題に矮小(わいしょう)化してしまうとは、あまりにも恥ずべき簒奪だと思いませんか。

 持続可能な地球と社会――SDGs。気候変動、自然災害、環境破壊、パンデミック、AI、戦争、食糧危機、少子高齢化、いいでしょう、いいでしょう。大きな、そして必然的なテーマでしょう。しかし、これら情勢の変化によってネガティヴな影響を必ず先に受けるのは(朝日新聞に対して釈迦に説法な気もしますが)弱者、特に身体的弱者です。なのになぜ身体的弱者を抜きにそれらを語るのだろうか。

 繰り返します。他の国ならいざ知らず、日本は「相模原障害者施設殺傷事件」という、稀(まれ)にみる障害者憎悪犯罪が起きた国なのですよ。あの日、2016年7月26日に、何人が殺され、何人が傷を負ったか、覚えておられますか。それをまっとうに記憶していたら、「共生」の語を身体的弱者への想像力なしに、無思考に、ただの意識高いwokeのためのキラキラワードに貶(おとし)めてしまう「朝日地球会議2024」のセッション構成はありえなかったのではないですか? あるいはもっと深刻な認識の問題――【そうは言っても、われわれの「一般社会」とヤマユリエンみたいな障害者の世界は、ぜんぜん別のことだからなあ……】――こうした心理の断絶が、私とあなたがたの間には横たわっているのかもしれません。これが、本寄稿で私があなたがたに伝えたかったことです。

コロナ禍で起きたこと

 「共生」の語をもってしても乗り越えられない断絶。

 特にコロナ禍の渦中で障害者たちに降りかかった苦難。医療の受けづらさ、医療者による差別、面会制限、世間の無関心、正常化する社会から置き去りにされていくこと。パラレルワールドに取り残される、と、ある重度障害者の親御さんは言っていました(『増補新版 コロナ禍で障害のある子をもつ親たちが体験していること』生活書院)。コロナ禍を境にして、もともとあった断絶はもっと露骨に、あからさまになりながら深まったと感じている人たちがいます。社会はすでに、私たちを切り捨てることを選んで、そうしても痛まない心をコロナ禍という非常時の経験から手に入れたのではないか、と。

 私自身は楽天家のうえ日本社会をどこか堅固に信頼しているので今まであまりそういうふうには考えなかったのですが、「朝日地球会議2024」の構成を見て、「ああ、……そうなのかもしれないな」と、初めて思いました。日本に身体障害者は人口の3.5%程度いるとされ、76人なら2、3人は交ざらなければ不自然になります。にもかかわらず、あのクオリティーペーパー朝日新聞の考える「共生」からも障害者は、どんな障害者であっても――コミュニケーションに問題がなく楽しくお喋(しゃべ)りできる車椅子ユーザーですらもラインナップに入れてもらえないレベルで徹底的に排除されるのだから。もはや、多様性のかたちだけ揃(そろ)えて参加させときましたというアリバイを作る気さえないのだろう。

 つまり「8がけ社会」にも順応して生き残れる人間だけが生き残ればいいという、これは宣言なのだろう、と思いました。

 朝日新聞デジタルを「8がけ社会」のキーワードで検索しても障害者の不安に取材した記事はありませんので、この確信は間違いではないはずです。365日ほとんど家の中に閉じこもっている私のところにだって障害者の苦境の情報は届くのです。足で稼ぐ新聞記者の目と耳にもっと多くの情報が入っていないわけがない。とすれば、情報と関心事の取捨選択と優先順位に何らかのバイアスがあるのでしょう。自分と同じ属性、似た経験、自分が共感できる課題、聞きやすい声、話しやすい人。すべてその逆にある障害者はいつものように、いないことにされ、「共生」の輪からも消された。私にはもう、未来に期待する気力が残っていません。

市川沙央さん

 いちかわ・さおう 1979年生まれ。幼少期に全身の筋力が低下する難病「先天性ミオパチー」と診断され、14歳から人工呼吸器を使う。2023年3月、早大人間科学部通信教育課程を卒業し、卒業論文「障害者表象と現実社会の相互影響について」が小野梓記念学術賞を受ける。2023年7月、デビュー作の小説「ハンチバック」が第169回芥川賞に選ばれた。近刊に「女の子の背骨」。

「共生」への取り組み強化 市川沙央さんの朝日地球会議への指摘受け

市川沙央さんからいただいたご指摘への朝日新聞社の受け止めと、朝日地球会議をより開かれたものにするための取り組みを説明します。

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