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ガザ戦闘1年 新中東危機

 3人の娘を15年前にイスラエル軍の攻撃で失いながら、「私は憎まない」と述べて共存を呼びかけているパレスチナ自治区ガザ出身の医師がいる。その歩みが映画となり、今秋の公開に合わせて来日した。どうして憎まずにいられるのか。イゼルディン・アブラエーシュさんに聞いた。

イスラエルの病院で初のパレスチナ人医師

 〈難民キャンプで9人きょうだいの長男として生まれ育ち、家計を助けるため働きながら通学した。奨学金を得てカイロ大で学び産婦人科医に。ロンドン大、米ハーバード大でも学んだ。1997年、イスラエルの病院で働く初のパレスチナ人医師となり、ガザから通った〉

 ――ガザでも無料診療所を開き、イスラエルの人にはガザを案内し、相互理解をはかる活動をしていたそうですね。

 「生まれてくる赤ちゃんも、不妊治療の悩みも、パレスチナ人とイスラエル人とで変わりません。人間性を発揮できる医師の仕事を通じ、両者の架け橋になろうとしていました。イスラエル人の同僚も患者を区別することなく、平和共存は可能だと信じていました」

 〈しかし、当時の和平への機運はしぼみ、イスラム組織ハマスが台頭。あいつぐ武力衝突でガザは2007年から封鎖され、「天井のない監獄」と呼ばれる状況に。09年1月、前月からの大規模攻撃で自宅が砲撃され、8人の子どものうち長女、四女、五女、めい1人の命が奪われた〉

娘たちを失っても訴えた平和共存

 ――砲撃の直後、イスラエルの放送局のキャスターに電話をかけ、あなたの泣き叫ぶ声が生放送で流されました。

 「三女は眼球が飛び出て指がとれかけていました。設備の整ったイスラエルの病院へ運べるよう、よく取材を受けていた友人に助けを求めたのです」

 ――いろいろな人が動いてその娘さんは助かりましたが、取材陣に「私は平和共存の実例になる」と話し、驚かせました。

 「あの時、私は砲撃を受けた部屋に直前までいたのです。生き残ったのはなぜなのか。それは分断に橋を架けるためにもっと働くためではないか。そう思い、決意を新たにしました」

 ――「最後の犠牲者になるの…

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