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 第2次世界大戦末期の1945年7月4日未明、高松、徳島、高知の四国3都市が米軍の空襲を受けた。

 このうち高松には、B29爆撃機116機が通常爆弾24トンと焼夷(しょうい)弾809トンを投下し、1359人の命が奪われた。

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 戦後、大勢の市民の要望もあって設置された高松市平和記念館(設置当初は平和記念室)には、高松空襲について「約2時間で1000人を超える人々が亡くなるというのは、軍隊どうしの大激戦でもそうあるものではありません」との説明文がある。

写真・図版
高松空襲で焼け野原となった市街地=高松市、1945年7月19日

 ただ、これだけの大きな被害を少しでも減らせたかもしれない出来事が当時あったと、同館職員の中條輝宗さんは指摘する。

 それは、幻となった住民疎開案だった。

 高松市が83年に発行した「高松空襲戦災誌」によると、45年6月22日、香川県の招集で「図上防空防火対策」の協議があり、各市の責任者が参加した。

 当時の高松市長、鈴木義伸が県警察部長の細谷喜一に対し「空襲の被害を最小限度に食い止めるため、老人や婦人・子供ならびに家財道具の疎開をさせ、元気な者で居住地周辺を守るべきである」と願い出ていた。

 だが、現在の県警本部長にあたる細谷はこの提案を認めなかった。

「反戦思想につながる」

 戦災誌には「敵の攻撃に対し…

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