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瀬戸内寂聴さんも通った祇園のお茶屋「みの家」の女将吉村薫さん=2024年10月30日午後7時16分、京都市東山区、岡田匠撮影
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吉村薫さんに聞く②

 瀬戸内寂聴さんの代表作「美は乱調にあり」は、大正時代に活躍した伊藤野枝や内縁の夫の大杉栄を描いた。2人を殺害したのは憲兵大尉の甘粕正彦。京都・祇園のお茶屋「みの家(や)」の女将(おかみ)だった吉村千万子(ちまこ)さんは甘粕と懇意で、甘粕からの手紙を寂聴さんに見せた。千万子さんの娘で、みの家の女将の薫さん(74)が裏話を明かしてくれた。

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 ――千万子さんがモデルとなった小説「京まんだら」(1972年)は、除夜の鐘の場面から始まります。

 母が清水寺の近くで営んでいた旅館が舞台です。69年の大みそか、寂聴先生、日本画家の堀文子さん、随筆家の関容子さんら4人が旅館の10畳間に泊まり、母も交えて飲んでいました。このときの様子が京まんだらの最初の場面です。

 私もおしゃくに出ていたのですが、デートがあり、夜10時過ぎに旅館を出ました。大みそかと7月の祇園祭の宵山(よいやま)は、朝方に帰っても怒られない特別な日。美容院で振り袖の着付けをしてもらい、八坂神社にお参りにいきました。

 日付が変わって元日の午前5時ぐらいかな。旅館に戻ると、まだ先生や母たちは飲み続けていました。べろんべろんになった先生が「後ろを向いてみい」と言うので、ぐるっと回りました。先生は、私の振り袖の帯が崩れていないのを見て、「なあんだ、やってきたのかと思った。残念」とおっしゃるので、みんなが大笑いです。

肌身離さずに持ち歩いた手紙

 ――千万子さんが寂聴さんに甘粕の手紙を見せたのは、このときですか。

 私がデートに出かけていたときなので直接は見ていませんが、二・二六事件や大杉の話題で盛り上がっていたそうです。和服姿の母が帯の中から手紙を取り出し、先生に見せて、読みあげたようです。

 あとになって聞いたのですが、母はこの手紙を肌身離さずに持ち歩き、人に見せたのは初めてです。母の死後、手紙は先生のふるさとの徳島の県立文学書道館に贈りました。

甘粕が贈ってくれたお祝い金

 ――甘粕は関東大震災の直後、無政府主義者の大杉や野枝を殺害して服役した後、旧満州に渡りました。千万子さんは、なぜ甘粕の手紙を持っていたのですか。

 母は祇園に来てから「吉松(よしまつ)」という大きなお茶屋で、仲居として奉公をしていました。その吉松に、旧満州から戻った甘粕が通っていたそうです。芸妓(げいこ)さんや舞妓(まいこ)さんをたくさん呼んで遊びますが、必ず母を横に座らせました。

 そのあと、甘粕はまた旧満州に戻ったか何かで、しばらく吉松に来なくなりました。母は、吉松のお客さんと恋愛をして夜逃げし、みの家を再興させます。

 祇園に寄った甘粕が吉松の女将に事の次第を聞き、お祝いのお金と手紙をみの家に贈ってくれました。いくらだったのかわかりませんが、おそらく大枚だったと思います。

 その手紙に書かれていた日付が昭和17年3月17日です。母は、この日を、再興したみの家の創立記念日にしました。母は私に多くを語りませんでしたが、甘粕と恋愛関係にあったと思います。先生も同じ意見でした。

 ――なぜ、そう思うのですか。

記事の後半で、寂聴さんが吉村さんの母の生涯を小説に書こうと決めた経緯が明かされます。

 映画「ラストエンペラー」(…

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