戦時中に沖縄から九州に向かった学童疎開船「対馬丸」が米軍の魚雷を受けて撃沈されて22日で80年。海に投げ出されながらも生き残った引率の先生が、こどもたちへの思いを短歌に刻んでいた。先生の死後、遺品から短歌をみつけた娘の上野和子さん(77)=栃木県栃木市=が、対馬丸事件と母の半生をたどった本「蕾(つぼみ)のままに散りゆけり」(悠人書院)を出版した。

 太平洋戦争下の1944年。日本が統治していたサイパンが陥落し、次は沖縄が戦場になるとみられ、こどもたちの本土疎開が決まった。

 新崎(旧姓宮城)美津子さんは当時24歳。那覇市の天妃国民学校の先生だった。疎開するこどもを集めるように言われ、家庭訪問を重ね、不安がる保護者に、こどもを船に乗せるよう説得した。

 約1800人を乗せて那覇港を出た対馬丸は、翌日の8月22日、鹿児島県トカラ列島の悪石島付近を航行していた。甲板にいた美津子さんは、白く長い何かが突進してくるのを目撃した。

 さんざめく子等を乗せたる対馬丸我が目の前で魚雷命中す

 対馬丸には、女学校4年の妹祥子さんも乗っていた。魚雷を受けた時に「姉さん、けがをした」と言われたのに、預かったこどもたちに気をとられ、その手をふりほどいたという。

 美津子さんも海に投げ出され、板につかまり漂流。4日後に漁船に救助されたが、板につかまった6人のうち助かったのは2人。学童784人を含む約1500人が波間に沈んだ。

 先生をやめた。沖縄を避ける…

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