五月晴れの穏やかな日、男鹿半島の小さな漁村を訪ねた。入り江の浜に立っても、ここに津波が押し寄せて子どもたちをのみこんだなど、想像もつかない。「あの日も今日みたいにいい天気だった」「海面に浮かんだ赤い運動帽がかわいそうでね」。救助に尽くしたお年寄りたちは、42年前の惨劇を語った。
1983年5月26日の日本海中部地震。秋田県男鹿市の戸賀加茂青砂海岸に到達した津波で、旧合川南小学校(北秋田市)の小学生13人が犠牲となった。
大友興子さん(84)は夫の真悦さん(故人)と浜の近くで旅館を営んでいた。その日、真悦さんは朝から漁に出ていた。海の異変を感じ、急いで浜に戻ると海面が一気にせり上がった。次の瞬間、浜辺でお昼の弁当を広げていた子どもらが次々に波にのまれた。
津波は何度も襲ってくる。それでも、真悦さんは「早く助けなければ」と構わず船を出した。仲間の漁師たちも続いた。
興子さんは岸壁へと駆けた。子どもめがけてロープを投げ入れ、竹ざおも差し伸べた。だが、もう少しのところでつかめず、沈んでいく子も。
「地震があったら海に逃げろ」
日本海側には津波は来ない――そんな俗説を、興子さんも信じていた。むしろ、山が崩れたりする「山津波」の方が怖い。「地震があったら海に逃げろ」と言われてきたという。あの日も地震の後、女性たちは逃げることもなく、浜で天然ワカメを干していた。
興子さんは、三陸や能登の津…