あの日、2歳だった少女は古希を過ぎた。この69年間のほとんどを、自宅の居間で過ごした。
丘の上にある県営住宅の一室。南向きの掃き出し窓から、柔らかい春の陽光が差し込む。新緑の山が遠くに見える。
居間に置かれた介護ベッドの上に、田中実子(じつこ)さん(71)は横たわっている。両手を握り締め、宙を見つめ、時折、「あー」と声を出す。
以前はひざ立ちをして、窓の向こうを見ることもあった。2年ほど前、寝たきりに。
表情はあまり変わらない。たまに笑顔になるが、その理由はわからない。
「実子、実子や。どうしたい」
義兄の下田良雄さん(77)が顔を寄せ、声をかける。返事はない。3歳になる少し前に、話せなくなった。「言葉が出ないのは歯がゆいだろう」
類例をみない公害病事件。それは、幼い2人の姉妹に表れた「異変」から発覚した。
実子さんは1953(昭和2…