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作家の山内マリコさん=東京都中央区、井手さゆり撮影

Re:Ron連載「永遠の生徒 山内マリコ」第2回【エッセー編】

 映画が好きになった中学生の頃から、毎年3月はアカデミー賞の授賞式を見てきた。私は大学の卒業式を欠席しているのだが、日程がアカデミー賞とかぶってしまって、実家に帰って朝からWOWOWでレッドカーペットの生中継を見ていたのだった。長編アニメ映画賞に『千と千尋の神隠し』が選ばれた年だ。宮崎駿監督は授賞式に来なかったが、私は大学の卒業式を蹴ってまでアカデミー賞を見るほうをとった。とにかくそのような熱意で、自分はもうかれこれ30年もアカデミー賞をウォッチし続けているのである。

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 好きな作品や俳優が受賞すればわがことのようにうれしくて、目をうるうるさせる。アカデミー賞はこれ以上ない栄誉であり、受賞者のスピーチは感動的だ。近年はホワイトすぎる(白人優位すぎる)受賞傾向が問題視されるようになり、投票権のあるアカデミー会員の多様性が重視されるようになった。

 言うまでもなく会員は男性に偏っていて、しかも高齢だった。2012年の実態調査では、全体の94%が白人、77%が男性。平均年齢は62歳で、50歳以下の会員は14%。日本の国会みたいな状態だったのだ。

 これじゃいかんと見直されるや、会員のダイバーシティーはくっきりと、受賞作に反映されるようになった。2021年にクロエ・ジャオ監督がアジア人女性初の監督賞受賞に輝くなど、女性や白人以外の人種に門戸が開かれた感があった。

 2023年は主演女優賞と助演男優賞をアジア系の俳優がとった。これはものすごい変化だった。

 権威に疑問が呈され、メンバーチェンジされ、評価されるものが変わる。受賞傾向から社会の動きを感じられるようになったことで、賞の社会的な意義が増し、ますます見逃せなくなった。

 だけど正直に言って、その流れも2023年までだった。昨年のアカデミー賞は揺り戻しのように、アジア人俳優への蔑視が問題視された。そして今年のアカデミー賞に至っては死ぬほど退屈だった。この人にとって欲しいという予想はことごとく外れた。『ANORA アノーラ』は『コンパートメント No.6』の上澄みを剽窃(ひょうせつ)した、ウケ狙いの凡作に見えたが、作品賞や脚本賞など主要5部門を独占した。私は思わずテレビに向かって悪態をついた。

 とくに主演女優賞の結果にはズッコケた。下馬評通りにいけば『サブスタンス』のデミ・ムーアが選ばれるはずだった。その映画をまだ観(み)ていなかった私も、それを望んでいた。

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2025年3月2日、カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッドで開催された第97回アカデミー賞授賞式で、主演女優賞にノミネートされたデミ・ムーア=ロイター

 デミ・ムーアは1990年にロマンチックコメディー『ゴースト/ニューヨークの幻』の大ヒットで世界的な知名度を獲得したスターだ。

 全盛期の主演作には、マイケル・ダグラスが演じる元恋人に対して虚偽のセクハラ告発をする『ディスクロージャー』(1994年)、姦通(かんつう)の罪を犯した女性を描く古典を映画化した『スカーレット・レター』(1995年)、夫から娘を取り戻すためにストリッパーになる『素顔のままで』(1996年)などがある。

 そのころ映画雑誌を愛読していたので、デミ・ムーアの主演作が公開されるたびに、かなり誌面を割かれて宣伝されていたのを覚えている。と同時に、デミ・ムーアについて書かれた文章にはいつも、彼女がどこか小バカにされ、毛嫌いされているニュアンスが漂っていた。

 文芸映画は似合わないとか、作品選びが下手とか、演技が下手とか、上昇志向が鼻につくとか。文章にはなにげない言葉端に書き手のものさしが埋め込まれるもので、ただぼうっと読んでいるだけで、意外な深さで影響を受けてしまう。とりわけ映画は作品を観る前に紹介文やレビューを読むことが多い。本編よりも先に入ってくるそれらの文字情報で、観るか観ないかを決める。今ならSNSの感想合戦がそれにあたるだろうか。

 10代の私は、自分の目で見て、確かめる前に、与えられた情報からジャッジを下すことが普通になっていた。「スポンジみたいに」という表現がぴったり。なにも考えず、そこに書かれてあることを吸い取って、まるで自分の意見みたいにしてしまう。先入観の塊だった。映画雑誌のちょっとした書きぶりから私は、「なるほど、デミ・ムーアはたいした役者じゃないんだな」と学習し、彼女のことを低く見るようになっていた。

 極め付きが、リドリー・スコ…

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