全国で初めて「前方後方墳」という言葉が使われた山代二子塚古墳(松江市山代町)についての講演会が8月31日、松江市市民活動センターであった。1924(大正13)年に大庭鶏塚古墳(同市大庭町)とともに国史跡に指定されてから今年で100年になるのを記念した同市の企画で、市民ら約120人が聴き入った。
山代二子塚古墳は全長約94メートルで山陰最大級。1925年刊行の島根県史で、古墳の形は「前方後方墳」と表現された。
この日は、丹羽野裕・市文化財総合コーディネーターが「山代二子塚古墳に眠るのは誰だ⁉」と題して講演した。築造時期とされる6世紀半ばは全国的に前方後円墳が主流だったことを説明。「前方後方墳」の築造理由に関して、出雲東部は豪族首長の連合が形成され、トップクラスは「前方後方墳」を、ナンバー2のクラスは前方後円墳を築くといった「独自のシステムを作り出した」との見解を示した。
6世紀半ばは、ヤマト王権が全国各地の統治を進め、豪族首長を地方長官の国造(くにのみやつこ)に任命していた時期だとし、「山代二子塚古墳に眠るのは初代国造ではないか」と述べた。
市文化財保護審議会委員の佐藤信・東大名誉教授はヤマト王権と出雲の関係を解説。出雲では、東部と西部に二大勢力があり、東部がヤマト王権と密接な関係を築いたことなどを話した。
1924年に国史跡に指定された県内の古墳にはほかに、出雲市の今市大念寺古墳、上塩冶築山古墳、上塩冶地蔵山古墳がある。松江、出雲の両市では、主要古墳の一斉公開など指定100年を記念した様々な催しが予定されている。(堀田浩一)