熱田空襲の犠牲者を悼む「平和地蔵尊」の前で行われた慰霊祭=2025年6月9日、名古屋市熱田区、高橋豪撮影

 太平洋戦争末期、軍需工場だった「愛知時計電機」(名古屋市熱田区)などが狙われ、2千人以上が死亡した「熱田空襲」から9日で80年を迎えた。犠牲者を悼む同社敷地内の「平和地蔵尊」では今年も慰霊祭が行われたが、当時を知る遺族や関係者が減り、記憶の継承が課題となっている。

進む遺族の高齢化

 熱田空襲では、戦時中に軍用機や海軍兵器を生産していた愛知時計電機などの工場が狙われた。従業員や動員学徒、近隣の住民も含め2千人余りが犠牲になった。

 この日は、1989年から慰霊の法要を営む法然寺(同市中川区)の石原英忍住職(61)がお経を唱え、十数人が手を合わせた。

 地蔵尊は、愛知時計電機の本社敷地内に市民によって58年に建立された。同社は昨年、地蔵尊に倒壊の恐れがあるとして、看板で「撤去方針」を告知。工場正門前にある同社従業員犠牲者の地蔵尊に合祀(ごうし)する考えだった。しかし、地元で反発が広がり、同社は方針を変更。歩道から離れた場所に移設するなどの安全策を講じたうえで、地蔵尊は保存されることになった。

 慰霊祭には存続を呼びかけた市民団体の関係者も参列した。だが、石原さんによると、遺族の高齢化が進み、50回忌を過ぎてから参列者が減っていったという。近年は数人だけという年もあった。

 それでも、地元の声を受け、地蔵尊は残った。戦争の記憶を継承していくため、石原さんは「80年で終わりではなく、体力が続く限り(慰霊祭を)続けていく」と話す。

体力理由に自宅で祈った遺族も

 愛知県豊橋市の伊藤三従さん…

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