広島、長崎の両方の原爆投下機に搭乗した米兵の孫と、両方で原爆に遭った「二重被爆者」の孫が出会い、友情を築いています。2人に折々の国際情勢に触れながら手紙を交わしてもらう企画の4往復目です。
このたびのお手紙、おじいさまの体験やご家族の歴史、第2次世界大戦の記憶に対する複雑な思いを率直につづってくださり、ありがとうございます。真珠湾攻撃や太平洋戦争、そして「和解」という言葉の難しさについて、もう少し深くお返事させてください。
- 【前回の原田小鈴さんの手紙】謝罪なき「和解」はあるのか
とりわけ、日本軍が軍事基地である真珠湾を攻撃したことと、米軍が広島・長崎で一般市民に原子爆弾を投下したことの根本的な違い、さらには長崎が広島ほど注目されない現状への疑問といったコスズさんの指摘は、ぼく自身も大いに共感するところです。それらを考えるうえで、ぼくの考え方に大きな影響を与え、先ごろ亡くなられた被爆者の笹森恵子(しげこ)さんの人生とメッセージを、改めてお伝えしたいと思います。
ぼくは2013年、NGO「ピースボート」の航海で恵子さんとご一緒しました。彼女は被爆者が世界各地を回って証言する「おりづるプロジェクト」の一員で、ぼくはそのウェブリポーターとして同行していたのです。アウシュビッツやベトナム、インド、キプロスなどさまざまな場所を訪れましたが、とりわけ印象深かったのはシンガポールでした。証言会を行う前、ぼくたちは国立博物館を見学し、第2次世界大戦中の日本占領下で、シンガポールの人々がどれほどの苦しみを味わったかを学びました。その重い事実を胸に、恵子さんが自らの被爆体験を語ったのです。
13歳のときに広島で被爆し…