交通事故の後遺症のため、体がまひした息子の自宅介護を30年以上続けてきた母(81)は覚悟を決めた。
寂しさも不安もある。でも、自分が倒れるわけにはいかないとの思いからだ。
広島市西区の広兼幹三(かんぞう)さん(56)は22歳だった1991年7月、交通事故に遭い、頭を強く打った。
診断は「脳幹挫傷」。
意識はしばらく戻らず、動くことも話すこともできなくなった。
母、房子さんは事故から5カ月間のことをよく覚えていない。記憶がはっきりしているのは、その年のクリスマス以降のことだ。
「幹三さんに」。同じ病院に入院していた女性の付き添いをしていた家族がプレゼントをくれた。
贈り物を手に、房子さんは泣いた。事故から初めての涙。声を上げて泣いた。
現実を直視できていなかったが、これを機に「ちゃんとせなあかん。私が落ち込んでいたらこの子も落ち込む。明るく生きよう」。思いがわいてきた。
93年秋から自宅での療養が始まった。
房子さんは朝、幹三さんのひげをそり歯を磨き、胃に通した管「胃ろう」から流動食や薬を入れる。たんを吸引し、床ずれができないよう2、3時間置きに体の向きを変える。
そばのソファベッドで眠り、夜間も幹三さんの体を動かす。
介護や家事の合間に房子さんは、小さな鶴を折った。1日に2、3羽、1年間で千羽。事故に遭った7月になると糸を通し、「また1年、無事に過ごせますように」と願った。
鶴が作れない
幹三さんの体を支え続け、房…