寺尾紗穂さん=竹之内祐幸氏撮影

Re:Ron特集「考えてみよう、戦争のこと」シンガーソングライター、文筆家 寺尾紗穂さん

世界中で戦禍は絶えませんが、国内では戦争の記憶が薄れていきます。戦後80年のいま、文学やアートなど様々な形で戦争と向き合ってきた人たちに、子どもたちに伝えたい、一緒に考えたい「言葉」をつづってもらいました。

 最近「日本は人種差別をやめようと立ち上がった最初の国だ」という意見をネットで見かけました。

 おそらく、かつての「大東亜戦争」(1937~45年)のことを言っているのでしょう。かつて西洋諸国はアジアの国々を植民地にしていました。「大東亜共栄圏」という構想に共鳴した人たちの中には、白人が黄色人種を虐げている中、日本がアジアを救う、という使命感を持っていた人もいました。しかし、日本が東アジアや東南アジア、ミクロネシアなどを統治する中で実際に「人種差別」をしない素晴らしい地域を作り上げたか、というと違います。

 そもそも戦前から戦中の日本には国内でさえ、差別が横行していました。沖縄出身の詩人山之口貘は、大正12(1923)年の大阪で人材募集の広告に「朝鮮人と琉球人はお断り」とあるのを見ていますし、好きな女性ができても、自分が沖縄出身と言うことができない苦しさを詩に書いています。今の私たちには想像できないほど、当時の日本には差別が広がっていました。

 こうした差別意識は、日本の植民地にも持ち込まれました。内地から、商売や農業をしようと植民地に移住した人たちがいたからです。私は、ドイツが第1次大戦に負けた後、日本によって統治された旧南洋群島についていくつか本を書いていますので、サイパンのケースを見てみましょう。

日本の植民地だったサイパンに住んだ日本人や現地の人に戦争の記憶を聞いた寺尾紗穂さんのノンフィクション『南洋と私』

寺尾さんと南洋諸島

 作家中島敦は1941年、日本が統治したパラオに日本語の教科書編纂(へんさん)のため赴任し、南洋を舞台にした作品を残した。そのうちの一編「マリヤン」を学生時代に読んだ寺尾紗穂さんは、南洋諸島での戦争の記憶を調べようと思い立つ。当時を知る島民や日本からの移住者を探し、サイパンと日本各地でインタビューして得た複数の証言を元に、教育や産業、文化交流、さらに日米の戦争の状況を『南洋と私』などの本にまとめた。

パラオに赴任した中島敦が日本にいた息子たちに送った絵はがきの数々=県立神奈川近代文学館蔵・提供、同館では9月23日まで「中島敦の手紙展 おとうちゃんからの贈り物」開催中(https://www.kanabun.or.jp/)

 当時サイパンの日本人小学校…

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