戦時中、木材でつくったおとり飛行機=天童木工提供

 モダンなデザインの家具メーカーとして知られる山形県天童市の「天童木工」。戦時中、軍需品の生産で技術を磨き、戦後に進駐軍向けの家具などをつくった歴史はあまり知られていない。

 本社2階のショールームには、美しいフォルムを備えた家具が並ぶ。代名詞ともいえるのが「バタフライスツール」。工業デザイナー柳宗理と3年かけて完成、来年で発売から70年になるロングセラーだ。

 その一角に、古びた木箱が展示されている。太平洋戦争中、軍の命令でつくっていた弾薬箱という。

戦時中につくっていた弾薬箱=天童木工提供

 「見学ツアーなどで軍需品をつくっていた歴史を話すと、『こんなものをつくっていた時代があったんだ』と驚く来場者が多いです」。天童木工企画部の後藤めぐみさん(42)は言う。

 会社は1940年、近隣の大工や建具職人ら約80人でつくった組合から出発した。組合設立には、戦争で若い働き手がみな徴用されてしまわないように、という思いがあったという。

天童木工の前身となった「天童木工家具建具工業組合」の職人たち=天童木工提供

 翌年に太平洋戦争が勃発すると、軍需品の注文が舞い込むように。陸軍の弾薬箱や海軍の火薬格納箱の生産が始まった。

 職人たちだけでなく、一線のデザイナーも戦争とは無縁でいられなかった。当時、仙台に「国立工芸指導所」の東北支所があった。工芸の振興をめざして工業デザインに取り組んださきがけで、多くのデザイナーを送り出した。

 天童木工の工場長は高度な仕事を求めて指導所に相談。提案されたのは「おとり飛行機」の製作だった。米軍機による上空からの偵察をごまかすため、軍用機に似せてつくった木製の飛行機だ。

 のちに日本を代表するインテリアデザイナーになる剣持勇の指導のもと、10機を製作。茨城県土浦市の第一海軍航空廠(しょう)に納めたという記録が残る。天童で家が700円で建った時代に、おとり飛行機の受注額は1機5千円だったという。

 軍がおとり飛行機をどのくらい配置したのかや、効果を伝える詳しい資料は確認されておらず、この記録は数少ない貴重な証言だ。

 「軍の命令には従わざるをえなかったが、軍需品の仕事での実績や評価が、その後の飛躍につながった」。企画部の今田隼人さん(35)は、こう話す。

バタフライスツール生んだ加工技術

終戦後、家具をつくり始めた頃の工場の様子=天童木工提供

 戦後、人々が求めるものを模…

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